<2010年11月10日>

最近、「生物多様性」という言葉を目にする。

世界各国がその重大さを論じ、国際的な会議を重ねているらしい。

日本もその会議に参加し、生物多様性回復への協力を誓ったらしい。


生物多様性?? 重大な問題?? 世界会議??

いったい人間界は、何を言いたいのだろうか??

いったい、何をどうするつもりだろうか??

・・日本も参加??

その「崇高な目標」と現実社会が、余りに懸け離れてはいないだろうか??

弁舌と本心とのギャップが、余りにも大き過ぎやしないか??


<すべては、連関している・・・・>

<すべては同じ根本であり、すべては同じ泉から湧きあがる・・・・>


生物多様性??

それは日本では無理に近いだろう。

考えなくても分かることだ。

今の日本社会が考えていること、世間が考えていること、

それを思い浮かべてみれば、生物多様性など夢のまた夢だ。

「え?? なんで??」と思う人は、鈍い人だ。とぼけた人だ。

その人だって、世間の感情を、世間の本心を、知っているはずなのだ。


一般的には・・・・

屋根がある家。暖かい部屋。腹を満たす食事。

金に余裕があるなら・・・・

グルメを楽しんだり、酒盛りを楽しんだり、買物を楽しんだり。

そういう生活の中で、人びとはネットに「意見」を発信する。

たとえば「山獣飢餓問題」・・・・

たとえば「理不尽な虐待を受ける動物たちの問題」・・・・

たとえば「余りに安易に捨てられるペットの問題」・・・・

こういった身近な動物たちの悲劇に対して、人びとの反応は実に酷薄である。

「人間優先が当たり前でしょうが!! 動物が苦しもうが知ったこっちゃない!!」

「動物の境遇を考えるなんて偽善でしょうが!! 偽善許すな!!」

結局は、大多数が、このような見解に纏まるのである。

このような見解の人が正常であり正義であると審判されるのである。

≪根本は同じである・・すべては同じ泉から湧きあがる・・・≫

どこに「生物多様性」を生む土壌があるというのだ??

どこに異種生命への寛容があるというのだ??

どこに異種生命への謙譲心があるというのだ??

自分たちは「我慢」を拒み、「与える」ことを拒み、異種生命にはそれを強要する。

自分たちは快適生活を追い求めながら、異種生命の過酷生活を平然と眺める。

いったい、どこに異種生命への理解があるというのだ??

そこに尊厳意識が無いのに、どうやって「多様性」に向かうのだ??

・・二枚舌はいい加減にしてもらいたい・・・・・

まず「意識」からだということを、社会は肝に銘じて欲しいものだ。

意識が変わらねば、肝心な部分は変わらずに終わるだろう。

心から湧きあがる「本心」だけが、根本へと辿り着けるのだ。

異種生命に対して、どこまで尊厳を感じることができるか??

すべては、そこに懸かっている。

だがそれは、理屈でどうにかできる領域ではない。

つまりそれは、最も至難な領域である。

最も至難な領域だからこそ、「新たな意識」に挑まねばならない。

新たな意識に挑まねば、生物多様性回復など絶対に不可能だ。

それが不可能だということは、人間の未来も閉ざされるということだ。

なぜなら、生物多様性が地球本来の姿だからだ。

それが大自然を支え地球を支え、人間を養ってくれてきたのである。

・・だが現実はどうか??

人間の一党独裁であり、わがまま放題やりたい放題である。


人間はペットの気持ちも分からない。家畜の気持ちも分からない。

ましてや、やむなく里に降りてきた熊の胸中も分からない。

人間は、なにしろ異種生命のことが分からない。

<異種生命たちは、互いに自然に交感できるというのに・・・>

つまり、それが人間の「特徴」である。

人間がそれを不得意とするならば、努力して得意としなければならない。

だが人間は、一向に努力する気配が無い。

多分人間は、己の特徴に気付いていないのだろう。

多分人間は、「交感」が如何に重大かを知らないのだろう。

交感の中にこそ、偉大なヒントが隠されているというのに。


■世間では「熊対策」に非情な意見が多い。

だが、里に降りた熊を、食糧の無い山に帰してどうするのか??

降りた熊は、なにしろ飢えているのである。

「飢える」という状態がどういうものなのか、人間は全く分かっていない。

<人間も、せめて三日でも絶食してみれば分かるだろう・・・>

飢えた熊は、一縷の望みを託して、危険を承知で、また降りてくるだろう。

どうにもならないから降りてくる。当然だと言える。

そんなことは、考えなくとも分かることだ。

あるいは人間は、地獄の「ワナ」を、あちこちに仕掛ける。

地獄のワナに捕えられ、苦痛に喘ぐ熊の意識は、全山に伝わる。

動物たちの感覚は鋭敏そのものなのだ。人間とは異次元なのだ。

山の動物たちは、特に同族である熊は、苦痛に喘ぐ熊の意識に感応する。

熊たちの心境は、ただならぬものとなる。混乱も生じるだろう。

同族の悲痛な叫びを聴いて、胸の内は、張り裂けんばかりになるだろう。

熊は、物凄く繊細な感性の持ち主なのだ。人間以上と言えるだろう。

家族を殺された熊が、三日三晩泣き叫んだという話もある。

人間に拾われた子熊が、少し大きくなって車で遠い山に運ばれて置き去りにされたが、

その子熊は、硬い硬い舗装道路を、危険に満ち満ちた道路を、

一晩中走り続けて、帰りたい一心で走り続けて、ついにその人の家に帰還したという。

熊とは、そういう感性の生きものだ。

心に混乱をきたすのも、感性溢れる生きものだからだ。

それを知らずに、いったい何を語れるのか??

もし人間から迫害を受ければ、抗議したい時もあるだろう。

その「抗議の心境」も分からないで、いったい何を語れるのか??

生物多様性・・と言うけれど、彼らは「物」ではないのである。

彼らを「物」と見て、数字やデータだけを追いかけても、根本は解決しない。

人間は自然界を、数字だけでコントロールできると思っているのだろうか??

あるいは、人びとの多くが、野生に手を貸してはならないと言う。

だがもはや人間社会の影響が「気候」にまで及んでいるのは周知の事実だ。

気候にまで影響が及べば、当然、山の食糧にも被害が及ぶ。

そんなことは、考えなくとも分かるはずである。

それなのに、ただ「降りてくるな!!山で飢えてろ!!」と人は言う。

もはや人間社会の影響が、隅隅にまで行き渡ってきているのだ。

だが依然として「手を貸すな!!それが自然保護だ!!」と評論する人が多い。

そもそも「自然保護」という言葉自体が、勘違いだというのに。

自然界は本来なら、自ら絶妙の調和を成しているのである。

それを崩してきた張本人が「保護・・」などと語ることが、勘違いなのである。

人間は、これほどまでに自然界から恩恵を受け続けてきたのに。

その自然界を育んできたのは、異種生命たちの全身全霊の生涯だというのに。

なのに人間は、未だにそれを理解しようとしない。

それは「恩知らず」というものだ・・・・

ところで人間が自然界から「資源」を得たいなら、

人間側もまた「我慢と協力と寛容」を心得なければならない。

「欲しい!!欲しい!!よこせ!!よこせ!!」だけでは道義に反するのだ。

もし資源を得たいのなら、己も代償を覚悟するのが道理である。


■南無華厳 狼山道院■