<2010年11月1日>

犬と暮らすには、自然体がいい。

本当は、理屈など要らないのだ。

理屈無しに自然体で対話が成され、調和されればいい。

頭を固くして犬と接すれば、己の対応は常に遅れる。

対話とは瞬間のタイミングなのに、常に後手後手に廻る。

つまり対話にならないのである。交感にならないのである。

それでは虚しい「条件反応誘導操縦」で終わってしまうのである。

そこには輝ける「交感」の感動など生まれないのである。

ここで言う自然体とは、弛緩した脳天気状態ではない。

全身の感覚を起動した上での自然体である。

全身の感覚を起動しながら余計な理屈を抜いた状態である。


犬が引っ張る??

感覚鋭敏で感受性豊かな命である。

何かを感知して引っ張る瞬間もある。当たり前の話だ。

その時には主人が、制止を発令すればいいだけだ。

普段の対話が成されていれば制御も可能となるのだ。

闘志を現わすことがある??

元は野生界の肉食獣なのだ。闘志が無ければ生きていけない。

人間は犬の素性を知った上で飼い始めたはずだ。

闘志を現わすくらいで、何をそんなに慌てるのか。

それを現わさないとしても、「内に秘めた」犬も多い。

その「内に秘めた闘志」が発現することもある。

そんなことで驚いてどうするのか。いちいち闘志に驚いてどうするのか。

普段の対話が成されていれば、慌てることなど無いはずなのだ。

本気で「生きていく」ということは、結局は闘志無しには成り立たない。

それを全否定するということは、相手を「命」として認めていないということだ。

結局は、相手を「ぬいぐるみ」や「ロボット」として見ているのだ。


戸外での犬の「排尿」を禁止する???

犬は家で排尿を済ませてから散歩に行け???

愛犬家を名乗る者たちが、このような発言をする。

確かに他家の玄関先で排尿させるなど論外だ。

排尿させるにも常識的な礼儀は守らねばならない。

排便は言うに及ばず、排尿とて礼節をわきまえるのは当然なのだ。

だがその者たちの要求は、そんなレベルではなく、

どうやら全面的な排尿禁止運動を目論んでいるようなのだ。

彼らは「人間の快適生活の為に犬の社会化徹底を・・」という御旗を掲げる。

彼らも愛犬家だという。いったい犬に何を望んでいるのか??

彼ら自身はどのような個性の犬を、どのようなスタイルで飼っているのか??

彼らは犬という命を、どのような視座で眺めているのか??

そのような者は、本当は犬を飼わない方がいい。

犬と暮らしても、犬の本領を削り取ることに忙しくなるだけだ。

本領を削り続けて、いったい後に何が残るというのだ。

彼らは本当は犬を求めているのでは無い。

彼らが頭に描いているものは、「犬」では無いのである。

犬は極めて我慢強いから、彼らの要求も受け入れるだろう。

だがその犬は、最後まで自分を殺して生きていくのである。

それが幸せと呼べるだろうか??

犬の排尿とは、単なる生理現象だけには終わらない。

そこにはさまざまな意味や意義が隠されているのだ。

「己の内の聖なる教典::本能」を全否定されれば、犬は立場を失う。

犬は己の立場を失い、毎日が葛藤と混乱の日日となる。


社会がそこまで犬を押し込めるつもりならば、犬を飼うべきでは無い。

社会が求めているのは、「犬」では無いのだから。

犬の形をした「ぬいぐるみ」や「ロボット」なのだから。

社会が犬を追い込む。社会が犬を否定する。人は犬を飼うべきでは無い。

このような社会で人が犬を飼えば、さまざまな不幸が訪れるだけである。

そしてこのような社会は、犬に対してだけ無理解なのではない。

あらゆる動物に対して、同様に無理解で傲慢なのである。

もちろん野生動物に対しても、快適生活絶対主義を譲ることは無いだろう。

野生動物がどんなに飢えて困ろうとも、

自分たちの既得権を、僅かでも「謙譲」するつもりが無いのである。

社会は動物に対しては、「謙譲の美徳」など微塵も持たないのである。

「山界と人界との境界が曖昧となり、動物が人里を侵犯している・・」と人は言う。

だが人間側は、その境界不可侵を厳然と守ってきたのか??

攻め込む時は好き放題に押し入り、ちょっとでも入られたら騒ぎ立てるのか??

長い年月に亘り、どんどん人間が山界へと進入したのではなかったか??


あるいは人里に「ベアドッグ」がいたとして、

その犬が里への「熊」の進入を阻止したとして、

その犬の御蔭で熊から住民が守られたとして、

だがしかし現代人は、いずれその「ベアドッグ」をも迫害するようになるだろう。

勇敢なベアドッグは、人によっては「怖い」と映るのである。

もちろん人間には温和で忠実な犬が選ばれる訳だが、

だがそれでも「怖い犬」と見る人が多いのである。それが現実である。


あちこちで犬に関する「議論」が盛んだ。

それを見ていつも思う。人間は犬を飼わない方がいいと。

「犬」を理屈で分析しようとする人が多過ぎるのだ。

理屈で考えないと「犬」を理解できない人が多過ぎるのだ。

だからいつも局限的な視座の断片的な話が展開する。

理屈で犬を見ると、どうしてもそうなるのである。


犬は、感覚と感性の世界に生きている。

だから犬を知るには、犬と暮らすには、犬と対話するには、

人間もまた「その世界」を知らなくてはならない。

その世界を知り、自分自身も「感応力」を練磨しなくてはならない。

それが錆付いていたら、絶対に「犬を知ること」はできないのである。

それなのに人間は、それを努力しない。

努力しないと言うよりも、それに気付いていないのである。

それを練磨する必要があることに、気付いていないのである。

人間は犬にいったい何を求めているのか??

人間の要求は矛盾に満ち、いつも支離滅裂に思えるのだ。

個性を論じながら、傾向性を論じながら、相反する要素をも要求するのだ。

議論している人人の意見を総括してみれば、

その要求は結局は、「ぬいぐるみ」か「ロボット」となる。

犬との絆を謳いながら結局は、「犬」を求めてはいないのである。


もし本当に「犬」を知ることができれば、野生動物の実像も分かる。

動物たちは、それぞれに特有の傾向性を持ってはいるが、だが根源には共通の何かがある。

もし犬を真に知れば、その「何か」が分かるのである。

ペットも家畜も野生動物も、みんなが、その「何か」を持っている。


■南無華厳 狼山道院■