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<2010年10月30日>

「動物に、魂はあるのか??」・・・

「人間の魂と動物の魂は、どう違うのか??」・・・

このような質疑を、「スピリチュアル世界」で見かける。

大概は「動物の霊格は、人間よりも劣る」と回答されている。

「動物の魂は、学びが足りない幼稚な次元である」とも言われている。

あるいは「動物には、人間のような固有の魂は存在しない」とも語られる。

これまで、かなりいろんなサイトを拝見したが、多くはこんな感じだった。

ほとんどが、何かの本とか文献を引用しているような感じだった。

スピリチュアル世界とは、こういう視座なのか・・・実に残念である。

<もちろん、そういう人ばかりでは無いはずだが・・・・>

宗教家も似たような話に終始する。彼らも動物の魂を知らないのか??

大乗仏教者は「悉有仏性」と語るが、それは「建前」に過ぎないのか??

「固定観念を脱却せよ」と説くが、それは口先だけなのか??

狼山は「野性界動物寺」として、いつも残念に思っているのである。


人間と動物は、姿かたちが違う。

人間と動物は、「表現」が異なる。

動物は人間のような「言語」で交信しない。

そして動物と人間は、学びの項目が異なるのである。

どちらが優れているとか劣っているとか、そういう問題では無いのである。

そこで「優劣」を発想した時点で、その人は最大の過誤を犯すのである。

そこで優劣を思い浮かべた時点で、その人は何も見えなくなるのである。

視座を変えれば動物たちの方が、過酷で高度な学びを実践している。

視座を変えれば人間たちは、独特の学びの領域に入っている。

つまり較べることはできないのである。比較は無意味なのである。

人間はとにかく「比較したがる」傾向を持っているのである。

口ではそれが過ちだと言いながら、それを犯しているのである。


人間と動物は、

今生に於いて「姿かたち」が違うだけである。

今生に於いて、表現が異なるだけである。

今生に於いて、交信方法が異なるだけである。

今生に於いて、学びの手段が異なるだけである。

こんな明快なことも知られていないとは・・・・残念であり、失望する。

きっと宇宙人も、がっかりしているに違いない。


もし「動物の魂」を語るのなら、

とことん動物と共感しなくてはならない。

それ無しには、語ることはできないのである。

運命を共にするくらいの覚悟が無くては、魂は見えてこないのである。

どんな本を読んだところで、どんな文献を読んだところで、魂は見えないのである。

動物の魂を実感できないのに安易に評論することは、実に失礼な話なのである。


たとえば「宇宙人」との交信を望む前に、

たとえば「神」との交信を望む前に、

動物たちや自然界との交信を試み、理解を深めるべきだと思う。

動物たちが、尊いメッセージを発信しているのに・・・・

自然界が、偉大なメッセージを発信しているというのに・・・・

あるいは、これだけ動物たちが困っているのに。

あるいは、これだけ自然界が困っているというのに。

身近な動物や身近な自然も、悲鳴を上げているというのに。

まずは地球の「同胞」たちの叫びを、聴くべきだと思うのだが・・・・・


だがその反対に、今度は動物の心を「擬人化」する人も増えてきた。

動物の心境を、安易に即座に「人間の言語」で表現する人が多いのだ。

正直言って、動物たちは、人間の言語のようなニュアンスでは語らない。

動物たちは、言語で思考しないし、言語で表現もしないのだ。

だから彼らの心境を代弁することは、実に至難なのである。

彼らの心境が分かっても、それを言葉で表現することが至難なのである。

そして彼らの価値観は、人間とは異なる。 死生観も、まったく異なる。

だから人間の価値観をそこに混ぜることは、絶対に禁物なのである。

その「交信者」が、人間としての感性で判読したら過誤が起きるのである。

人間の感性で判読して人間の感性で表現したら、誤差が大き過ぎるのである。

だから「交信者」は、まず「動物の実像」を知らねばならないのだ。

だから動物との対話、動物との交信は、独特な領域なのである。

動物からの「声」は、言語では入ってこないのである!!!

それをあたかも言語で入ってくるように語る風潮は、動物にとっては心外だろう。

動物たちの「交感・交信」は、言語対話よりも深い領域なのである。

その「言葉を超えた世界」を、安易に言葉で表現することはできないのだ。

彼らの声は、つまり「心そのもの」である。

いや、魂そのものと言ってもいい。

彼らはそれほどにダイレクトなのである。

人間のように交錯錯綜していないのだ。

彼らと生きてみれば、それがありありと分かるはずだ。



写真::「茜:あかね」と。

六年前に、赤ちゃんの時に、捨てられていた。

彼女は私の心が分かる。私も彼女の心が分かる。

私に抱っこされると、彼女は夢見心地になる。

時には森を離れていても、茜からの心の声を感じる。

私も深く集中し、茜に返事を送る。

時には、森にいる茜の姿が見えることもある。

茜だけではない。みんなの姿が見えるのだ。

全員が、深く強烈な想いで私を慕っている。

純情ゆえに、その想念は凄い。圧倒されるほどだ。

それほどにまでに愛されて、私は世界一の幸せ者だ。

■南無華厳 狼山道院■