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<2010年10月27日>

アヌッタラサムヤクサンボーデイ

アヌッタラサムヤクサンボーデイ

阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提

阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提

あのくたらさんみゃくさんぼだい

あのくたらさんみゃくさんぼだい


華厳菩薩に祈願する。

山に豊かさを戻させ給え。

動物への理不尽な非道を断じ給え。

動物たちを、生き地獄から救い給え。

ただ一心に祈念する。

野性界動物寺として全霊で祈念する。

深 念 華 厳 真 法 界 深 念 華 厳 大 悲 界

南 無 華 厳 真 法 界 南 無 華 厳 大 悲 界


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私がまだ仏教に出逢う以前の話だが、不思議な夢を見た。

夢に「阿耨多羅三藐三菩提」という文字が現われたのである。

私はその言葉を知らなかったし、その字を読めなかったはずなのだが。

夢の中では「あのくたらさんみゃくさんぼだい」と読んでいたのである。

夢の中の長時間、ずっとその文字が現われ続けた。

だから夢の中でずっと「あのくたら・・・」と唱えていたのである。

目が覚めてから、「あれは何の夢だったのか??」と不思議でならなかった。

のちに仏教を知りたくなって「仏教辞典」を開いたら、

この「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきたのである。

読み方も「あのくたら・・・」で正解だったのである。

これは本当の話である。自分でも驚いているのである。

<他にも不思議なエピソードは沢山あるが・・・>


「あのくたら・・・」とは、「真覚」のことである。

「あのくたら・・・」は、「仏そのもの」と言ってもいい。

この言葉は、言葉自体に「力」がある。

言葉自体が摩訶不思議な力を持っているのである。

「アヌッタラサムヤクサンボーデイ」は原語である。

「阿耨多羅三藐三菩提」の力は原語と同じである。

仏は現前にいる。仏は己とともにいる。

仏を深く念じれば、それが分かる。

だが仏を深く念じることは、なかなかに難しい。

なぜなら仏は人間の理解を超えているからだ。

だが仏を実感するための言葉がある。

先覚が全霊で言葉に現わしてくれたのである。

先覚が全てを賭けてそれを伝えてくれたのである。

だからその言葉には、想像の及ばぬ秘義が隠されている。

ただ一心に祈れば、その言葉の秘義と力を実感できる。

その力は、他者を救いたいときに、最も大きな力となる。

それがその秘義の力の最大の特徴である。

自分のことが心を占めていると、その力は現われないのである。

仏を実感するには、ただ自分自身の心境次第である。

だからつまり、非常に厳しい秘義である。

いい加減な気持ちは、まったく通用しないのである。

あるいは頭でいくら思考しても、実感はできないのである。

実感も祈念も、どこまでも果てしなく、己の心境次第である。



森に冬が近づいている。

気温はとっくに低地の冬レベルだ。

冬になれば、これまでのように記事を書くことはできない。

冬になれば格段に作業が増えるし、さらに時間に追われるからだ。

だから更新は減るが、時折り単発で書いていく予定だ。

どんなペースになるかは分からないが・・・・・


この森は銀世界となる。犬舎の扉も凍りつく。

道は消え、クロカン四駆車でも走破が困難となる。

また私と犬たちは、一丸となって乗り越える。

ともに耐え、ともに挑み、我我はさらなる絆に辿り着く。

我我はどんな苦境でも、無限の絆に生きている。

我我は貧しい家族だが、信じる感動に生きている。

犬たちは、感動に己を賭けている。

どんな美味しい褒美よりも、感動を求めている。

彼らもまた仏の世界に感応し、仏の世界に感動する。

彼らと生きると、それがありありと分かる。

私は彼らの前で、仏の言葉を唱える。

彼らはそれを、ただ一心に聴いている。

「敬虔」という言葉は、人間だけのものではない。

それどころか人間世界に「敬虔心」を探す方が困難かも知れない。

たとえば犬に、たとえば狼に、たとえば熊に、たとえば猪に、

彼らに敬虔心が秘められていると言えば、人人は仰天するだろう。

だが世間が仰天しようが、私は実感してきたことを書く。

この世は摩訶不思議なのだ。人人が気づかないだけである。

先入観と偏見が、気づくことを拒むのだろう。


■南無華厳 狼山道院■