
アヌッタラサムヤクサンボーデイ
アヌッタラサムヤクサンボーデイ
阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提
阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提
あのくたらさんみゃくさんぼだい
あのくたらさんみゃくさんぼだい
華厳菩薩に祈願する。
山に豊かさを戻させ給え。
動物への理不尽な非道を断じ給え。
動物たちを、生き地獄から救い給え。
ただ一心に祈念する。
野性界動物寺として全霊で祈念する。
深 念 華 厳 真 法 界 深 念 華 厳 大 悲 界
南 無 華 厳 真 法 界 南 無 華 厳 大 悲 界
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私がまだ仏教に出逢う以前の話だが、不思議な夢を見た。
夢に「阿耨多羅三藐三菩提」という文字が現われたのである。
私はその言葉を知らなかったし、その字を読めなかったはずなのだが。
夢の中では「あのくたらさんみゃくさんぼだい」と読んでいたのである。
夢の中の長時間、ずっとその文字が現われ続けた。
だから夢の中でずっと「あのくたら・・・」と唱えていたのである。
目が覚めてから、「あれは何の夢だったのか??」と不思議でならなかった。
のちに仏教を知りたくなって「仏教辞典」を開いたら、
この「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきたのである。
読み方も「あのくたら・・・」で正解だったのである。
これは本当の話である。自分でも驚いているのである。
<他にも不思議なエピソードは沢山あるが・・・>
「あのくたら・・・」とは、「真覚」のことである。
「あのくたら・・・」は、「仏そのもの」と言ってもいい。
この言葉は、言葉自体に「力」がある。
言葉自体が摩訶不思議な力を持っているのである。
「アヌッタラサムヤクサンボーデイ」は原語である。
「阿耨多羅三藐三菩提」の力は原語と同じである。
仏は現前にいる。仏は己とともにいる。
仏を深く念じれば、それが分かる。
だが仏を深く念じることは、なかなかに難しい。
なぜなら仏は人間の理解を超えているからだ。
だが仏を実感するための言葉がある。
先覚が全霊で言葉に現わしてくれたのである。
先覚が全てを賭けてそれを伝えてくれたのである。
だからその言葉には、想像の及ばぬ秘義が隠されている。
ただ一心に祈れば、その言葉の秘義と力を実感できる。
その力は、他者を救いたいときに、最も大きな力となる。
それがその秘義の力の最大の特徴である。
自分のことが心を占めていると、その力は現われないのである。
仏を実感するには、ただ自分自身の心境次第である。
だからつまり、非常に厳しい秘義である。
いい加減な気持ちは、まったく通用しないのである。
あるいは頭でいくら思考しても、実感はできないのである。
実感も祈念も、どこまでも果てしなく、己の心境次第である。
森に冬が近づいている。
気温はとっくに低地の冬レベルだ。
冬になれば、これまでのように記事を書くことはできない。
冬になれば格段に作業が増えるし、さらに時間に追われるからだ。
だから更新は減るが、時折り単発で書いていく予定だ。
どんなペースになるかは分からないが・・・・・
この森は銀世界となる。犬舎の扉も凍りつく。
道は消え、クロカン四駆車でも走破が困難となる。
また私と犬たちは、一丸となって乗り越える。
ともに耐え、ともに挑み、我我はさらなる絆に辿り着く。
我我はどんな苦境でも、無限の絆に生きている。
我我は貧しい家族だが、信じる感動に生きている。
犬たちは、感動に己を賭けている。
どんな美味しい褒美よりも、感動を求めている。
彼らもまた仏の世界に感応し、仏の世界に感動する。
彼らと生きると、それがありありと分かる。
私は彼らの前で、仏の言葉を唱える。
彼らはそれを、ただ一心に聴いている。
「敬虔」という言葉は、人間だけのものではない。
それどころか人間世界に「敬虔心」を探す方が困難かも知れない。
たとえば犬に、たとえば狼に、たとえば熊に、たとえば猪に、
彼らに敬虔心が秘められていると言えば、人人は仰天するだろう。
だが世間が仰天しようが、私は実感してきたことを書く。
この世は摩訶不思議なのだ。人人が気づかないだけである。
先入観と偏見が、気づくことを拒むのだろう。
■南無華厳 狼山道院■