<2010年10月23日>

人里に出没する熊が増えている。

普通なら、熊は人を避けるはずだ。

ましてや町になど降りては来ない。

人間の気配が渦巻く場所になど、普通は行かないのである。

なぜなら、そこに危険を感じるからだ。

彼らは本能で、そこが危険だと知っているのだ。

普通は熊にとって、人間世界は異界なのである。


ところが、山を降りてくる熊が後を絶たない。

平気で降りてくる訳ではない。

危険を承知で降りてくるのだ。

怖いけれども降りてくるのだ。

よほどの事情があることは明らかだ。

本能である「警戒心」を凌駕する事情があるのだろう。

普通なら、彼らは「警戒心」に忠実に生きるのだ。

それに忠実でなければ、生きていけないのだから。

それなのに、降りてくる。

それはもはや「賭け」なのだ。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、一縷の望みに賭けて降りてくるのである。


追い込まれた状況で、どうにもならない状況で、

どうしていいのか分からなくなっている状況で、

心の中で半分泣きながら、意を決して降りてくるのである。

気の強い雄熊なら、怒りにも似た激情に駆られているだろう。

子を連れた母熊なら、無我夢中の必死になっているだろう。

子熊たちも、不安と怖さに震えながらも歯を食い縛っている。

いったい、何日食べていないのか・・・・

いつもいつも腹を空かせて、このままでは冬眠もできなくなる。

このままでは、いずれにしても死が待っているのだろう。

もうとっくに、普通の状態ではないのだ。

身体はとっくにそうなのだ。 心境も、そうなのだ。

もうとっくに、普通の心境ではいられない状態なのだ。

人間も絶食してみれば分かることだ。

三日四日でもいい。一週間の絶食ならなお分かる。

そうすれば、少しは熊たちの心境が分かるはずだ。

※黒熊は基本的に「植物食」である。

彼らはこれっぽっちも贅沢など求めていない。


どうにもならない状況で、一縷の望みを託して降りてくるのである。

「熊が人間を怖れなくなった・・・」という意見も多いようだが。

だが「人間を怖れなくなった・・」のではないと感じる。

「何かに賭け、意を決して降りてくる・・」のである。

熊は賭けている。「死」を予感しながらも。

山でどれほど頑張ろうが、どのみち死が遠くないことを感じているのである。

山に返されたところで、毎日毎日の酷い空腹が待っている。

空腹が続くこと、つまり「飢え」がどれほど辛いことか。

成長もできない。冬眠もできない。身体も精神も常に限界状態だ。

もう普通の心境ではいられない。それは当然の話なのだ。

※彼らがエサを探し求めるというのは、

人間の趣味行為の「山菜採り・きのこ採り」とは根本から違う。

彼らは、「食わなければ死んでしまう」から探し求めるのだ。

熊たちは人間に、「困るんだ!! 来ないでくれ!!」と叫んでいる。

だがちょっとでも抗議すれば、人間からの報復が開始される。


山には、迫害を受けた動物の「念波」が広く伝わる。

迫害を受けた動物の念波は非常に強いのだ。

山の動物たちは、その念波を鋭くキャッチする。

山の動物たちは、自分がその迫害現場にいなくとも、ありありと状況を覚るのだ。

それが熊同士ならば、なおのこと分かる。

たとえば同族が「ワナ」に捕まって泣き叫ぶ声を、聞かぬはずが無い。

それがどれほど激痛か・・それがどれほど苦しいか・・・痛切に分かるのだ。

<その意味でも残酷な「ワナ」は、山に深い悲しみを刻むのである。>

だから山の動物たちは、迫害の怖ろしさを知っている。

そして迫害を受けた動物の無念を知っているのである。

同族なら、なおのこと分かる。 その苦しみと悲しみと無念を。

彼らは想う。 「なんで?? なんで?? なんで!!!」 と。


熊が「襲う!!」と人は言う。

だがもし本気の力で襲ったなら、人間など粉砕される。

熊の手の一撃で、どの部位でも、軽く骨折するはずだ。

「怪我」で済むはずが無く、身体中が骨折するだろう。

何度か成熊を真近で見たが、まさに「力の塊」である。

そのとき感じた。「なにをどうしようと、熊には微塵も通用しない」と。

「筋力・瞬発力・突進力・速度」・・どれをとっても次元が違う。話にならない。

20m先の熊が、一瞬で目前まで迫ったこともある。なんというスピード・・・・

あの骨格であの体重であのスピードで突撃されれば、自分の身体は宙に舞っただろう。

そのとき思った。熊からすれば、自分など「つま楊枝だ」と。

<それが大型種の「ヒグマ」なら、さらにケタ違いの迫力だろう。>

何度か接近遭遇したが、いつも熊は止まった。

なんで止まってくれたのか、言葉で説明するのが難しい。

ひとつ言えることは、熊の胸中が見えたということだ。

そして熊にも、私の胸中が見えたということだろう。

なにしろ一瞬の出来事だが、熊の迫力と威圧感に圧倒されたが、

それでも胆に力を込めて制止を勧告したら、止まってくれたのである。

そのとき私は、熊から攻撃意識を感じなかった。

多分、私は熊から試されたのだと思う。

熊は私の本心を、私の本性を、知りたかったのだと思う。

<たまに野性の実像を知らない格闘家が「豪語」するが、話にならない。>

<野性は生まれてから死ぬまで、その生涯のすべてを「生死の境界」に生きるのである。>

<全生涯を命懸けで生きる野性たちを侮るとは・・・・思い上がりの度が過ぎる。>

熊が本気で襲えば、人間は容易に殺されるのである。

「襲う」ということは、そういうことである。

だがしかし、いつもいつも「襲う」と報道される。

「子熊に襲われた・・」とさえ報道される。

<昔、子熊と遊んだことがあるが、その無邪気は、まったく犬と一緒である。>

なんでもかんでも「襲う!!襲う!!」である。

なんでもかんでも「襲う!!」と見るうちは、熊の心境など分からない。

熊の心境が分からねば、熊との共存など不可能に決まっている。

ただひたすら「駆除」していくしか無いだろう。

それが今の現状である。それが今の人間の境地である。

現代の人間とは結局、そういう生き物なのだと思うしかない。


何かの本で読んだ光景が、この胸を去らない。

子を抱いた母熊が、鉄砲隊に囲まれた。

母熊はもはや、静かに座っていたという。

その場を逃れようともしなかったという。

母熊は、おもむろに子熊の顔を舐め始めたという。

愛する子熊への、最後の抱擁と愛撫・・・・

もはや自らの運命を覚り、そして最期に愛を刻んだ。

死を目前にしながらの、母熊の偉大な愛・・・・

その時、容赦無い銃声が響き渡り、母熊の身体を衝撃が貫いた。


■南無華厳 狼山道院■