<2010年10月21日>
死後はどうなるのか・・・・
非常に多くの人が関心を持っているようだ。
だがそれは、死ねば分かることである。
誰もが死ぬのだから、誰もが分かる。
そんなに先の話ではない。
たかだか何十年先の話なのである。
そのとき誰もが、禁断の解答を知るのだ。
よく「輪廻」という言葉を聞く。
「輪廻からの解脱」と説く人も多い。
その解脱のための「覚り」を目指すようだ。
覚りによって輪廻から解脱して「涅槃」に入るのだと言う。
そのために「無我の境地」の修行を続けるようである。
私は正直言って「輪廻」には興味が無い。
自分が輪廻の苦から解脱することには興味が湧かない。
解脱して動物たちを救えるのなら、それなら話は違ってくるが。
他者を救うために己の解脱を目指すなら話は別だが、
そうなれば自分の輪廻など考えることは無いはずである。
輪廻が運命だとしたら、そんなものは堂堂と受容するしかない。
私はこの今生は、ただひたすら「学び」だと思っている。
何を学ぶのか?? それこそが重大である。
今生での学び・・・それは唯ひとつである。
どんな人にとっても、唯ひとつである。
いかなる人にとっても、それはただただ、ひとつである。
それは、「慈悲」を知ることである。
それはただただ、慈悲を知ることである。
今生での意義は、他には何も無いのである。
大慈悲まで昇るのは至難でも、慈悲的情緒は誰でも持っているはずだ。
その慈悲的情緒を、いかに育てていくか。
その大切な慈悲的情緒を、いかに捨てずに生きられるか。
いかに苦しい状況でも、いかに慈悲的情緒を忘れずに生きられるか。
今生では肉体を持って生きるから、苦しいことが多い。
人生は苦しいことだらけと言ってもいいだろう。
肉体を持っているから誘惑も多い。
人生は誘惑だらけと言ってもいいだろう。
だがその苦しみの中で、誘惑の中で、いかに慈悲的情緒を抱いて生きられるか。
今生での課題は、それだけである。
誰もが、それを試されているのである。
いつでも。どんな時でも。死の時までずっと。
もし慈悲的情緒を忘れずに生きたなら、課題は修了に近いだろう。
だがそれを捨てて無慈悲に生きたなら、課題は延延と終わらない。
延延と終わることなく、果てしなくずっと、試されることとなる。
その者が分かるまで、その者が得心するまで、ずっとずっと課題が続く。
さまざまな境涯で、さまざまな形で、果てしなく延延と試され続けるのである。
それが地球上とは限らない。
再び地球上に生まれる確率など無いに等しいかも知れない。
想像することさえ不可能な、途轍もない世界に生まれるかも知れない。
いずれにせよ、どこに生まれようと、延延とその課題が付いて回るのである。
それを輪廻と呼ぶとしたなら、そこからの解脱は「慈悲心」しかないのである。
慈悲を知り慈悲を得心する以外に、その試練から卒業する方法は無いのである。
己の解脱を目的に無我を目指していても、課題を卒業できないのである。
慈悲心によって他者を想うことが、すなわち無我への道であり解脱なのである。
死んですべてが終わるなら、楽な話だ。
だがこの世は、そういう話にはなっていない。
課題を残したままで旅が終わるほど甘くはないのである。
地獄などは無い。だが延延と続く試練は、ある意味で地獄である。
己が実感として慈悲の意義を分かるまで、その旅は続くのである。
霊魂やオカルトが怖いなどと言ってる場合では無いのである。
呑気に宗教を頭の理屈で講釈している場合では無いのである。
己自身の試練の旅の方が、はるかに途方も無くオカルトなのである。
どのような姿勢で生きれるか?? それこそが最も緊迫のオカルト問題なのである。
私は毎日、夜の山で野性禅に入る。
ずっとそういう年月を送ってきた。
一日が終われば、へとへとに疲れているが、それを欠かさない。
どんなに疲労していても、どんなに絶食が続いても、それを実践する。
なぜなら重大なメッセージが入ってくるからだ。
時には言葉で入ってくることもあるが、普段はそうではない。
それは言葉では無いが、心が理解できるのである。
そのようなインスパイアが、どこからか来るのである。
私がこのブログで書いてきたことは、すべてその「実感」である。
その実感で華厳を想う。そうするとさらに華厳の本心が見えてくる。
「一銭の金にもならないのに、なんでそんなことやってんの??」
「誰も理解者なんかいないのに、一人でなにやってんの??」
「それがなんになるの?? いったいなんの得があるの??」
こんなふうに言われ続けてきたが、一度たりとも迷いは無い。
「なんのために生きてるの??」・・・いつも聞かれた。
知るために生きてきた。慈悲の姿を知るために生きてきた。
人生に未練など無い。今生に未練など無い。
できれば死んで魂となって、自由自在に動物たちを助けたいくらいだ。
死んで阿修羅となって動物たちを助けたいくらいだ。
もちろん家族の犬たちが他界するまでは今生で生きねばならないが。
今生にいる限りは、誰が聞かずとも華厳を語り続けるが。
華厳は「葬式」のことなど仕事ではない。
華厳は「法事」のことなど仕事ではない。
華厳はただただ、とことん慈悲を説く。
無我も縁起も空も、すべては慈悲を説くための解説なのである。
単なる空観で終わったら、それは途中下車に過ぎないのである。
■南無華厳 狼山道院■
死後はどうなるのか・・・・
非常に多くの人が関心を持っているようだ。
だがそれは、死ねば分かることである。
誰もが死ぬのだから、誰もが分かる。
そんなに先の話ではない。
たかだか何十年先の話なのである。
そのとき誰もが、禁断の解答を知るのだ。
よく「輪廻」という言葉を聞く。
「輪廻からの解脱」と説く人も多い。
その解脱のための「覚り」を目指すようだ。
覚りによって輪廻から解脱して「涅槃」に入るのだと言う。
そのために「無我の境地」の修行を続けるようである。
私は正直言って「輪廻」には興味が無い。
自分が輪廻の苦から解脱することには興味が湧かない。
解脱して動物たちを救えるのなら、それなら話は違ってくるが。
他者を救うために己の解脱を目指すなら話は別だが、
そうなれば自分の輪廻など考えることは無いはずである。
輪廻が運命だとしたら、そんなものは堂堂と受容するしかない。
私はこの今生は、ただひたすら「学び」だと思っている。
何を学ぶのか?? それこそが重大である。
今生での学び・・・それは唯ひとつである。
どんな人にとっても、唯ひとつである。
いかなる人にとっても、それはただただ、ひとつである。
それは、「慈悲」を知ることである。
それはただただ、慈悲を知ることである。
今生での意義は、他には何も無いのである。
大慈悲まで昇るのは至難でも、慈悲的情緒は誰でも持っているはずだ。
その慈悲的情緒を、いかに育てていくか。
その大切な慈悲的情緒を、いかに捨てずに生きられるか。
いかに苦しい状況でも、いかに慈悲的情緒を忘れずに生きられるか。
今生では肉体を持って生きるから、苦しいことが多い。
人生は苦しいことだらけと言ってもいいだろう。
肉体を持っているから誘惑も多い。
人生は誘惑だらけと言ってもいいだろう。
だがその苦しみの中で、誘惑の中で、いかに慈悲的情緒を抱いて生きられるか。
今生での課題は、それだけである。
誰もが、それを試されているのである。
いつでも。どんな時でも。死の時までずっと。
もし慈悲的情緒を忘れずに生きたなら、課題は修了に近いだろう。
だがそれを捨てて無慈悲に生きたなら、課題は延延と終わらない。
延延と終わることなく、果てしなくずっと、試されることとなる。
その者が分かるまで、その者が得心するまで、ずっとずっと課題が続く。
さまざまな境涯で、さまざまな形で、果てしなく延延と試され続けるのである。
それが地球上とは限らない。
再び地球上に生まれる確率など無いに等しいかも知れない。
想像することさえ不可能な、途轍もない世界に生まれるかも知れない。
いずれにせよ、どこに生まれようと、延延とその課題が付いて回るのである。
それを輪廻と呼ぶとしたなら、そこからの解脱は「慈悲心」しかないのである。
慈悲を知り慈悲を得心する以外に、その試練から卒業する方法は無いのである。
己の解脱を目的に無我を目指していても、課題を卒業できないのである。
慈悲心によって他者を想うことが、すなわち無我への道であり解脱なのである。
死んですべてが終わるなら、楽な話だ。
だがこの世は、そういう話にはなっていない。
課題を残したままで旅が終わるほど甘くはないのである。
地獄などは無い。だが延延と続く試練は、ある意味で地獄である。
己が実感として慈悲の意義を分かるまで、その旅は続くのである。
霊魂やオカルトが怖いなどと言ってる場合では無いのである。
呑気に宗教を頭の理屈で講釈している場合では無いのである。
己自身の試練の旅の方が、はるかに途方も無くオカルトなのである。
どのような姿勢で生きれるか?? それこそが最も緊迫のオカルト問題なのである。
私は毎日、夜の山で野性禅に入る。
ずっとそういう年月を送ってきた。
一日が終われば、へとへとに疲れているが、それを欠かさない。
どんなに疲労していても、どんなに絶食が続いても、それを実践する。
なぜなら重大なメッセージが入ってくるからだ。
時には言葉で入ってくることもあるが、普段はそうではない。
それは言葉では無いが、心が理解できるのである。
そのようなインスパイアが、どこからか来るのである。
私がこのブログで書いてきたことは、すべてその「実感」である。
その実感で華厳を想う。そうするとさらに華厳の本心が見えてくる。
「一銭の金にもならないのに、なんでそんなことやってんの??」
「誰も理解者なんかいないのに、一人でなにやってんの??」
「それがなんになるの?? いったいなんの得があるの??」
こんなふうに言われ続けてきたが、一度たりとも迷いは無い。
「なんのために生きてるの??」・・・いつも聞かれた。
知るために生きてきた。慈悲の姿を知るために生きてきた。
人生に未練など無い。今生に未練など無い。
できれば死んで魂となって、自由自在に動物たちを助けたいくらいだ。
死んで阿修羅となって動物たちを助けたいくらいだ。
もちろん家族の犬たちが他界するまでは今生で生きねばならないが。
今生にいる限りは、誰が聞かずとも華厳を語り続けるが。
華厳は「葬式」のことなど仕事ではない。
華厳は「法事」のことなど仕事ではない。
華厳はただただ、とことん慈悲を説く。
無我も縁起も空も、すべては慈悲を説くための解説なのである。
単なる空観で終わったら、それは途中下車に過ぎないのである。
■南無華厳 狼山道院■