<2010年10月17日>

夕方から夜に変わる頃、森に狐のホウルが聞こえる。

ホウルといっても狐の場合は「ケーン」という感じだ。

狼のように歌う訳ではないのだが、狐の声の中にも哀愁がある。

犬たちが神妙な顔付きになる。

じっと聴きながら、だんだん切なくなってくる。

そしていつも、響華と照華がホウルを始める。

そうするとみんなが、コーラスを歌いだす。

彼らは、普通の犬にしては「ホウル:遠吠え」が上手だ。

上手い子とヘタな子がいるのだが、全体的には上手な方だ。

犬たちが歌い終わると、今度は狐が、再びホウルを返す。

犬たちはまたも神妙な顔となる。その顔が、切ない。

僅かに口を緩めて、目を大きくして、耳をそばだてて、森の彼方を見つめる。


狐と犬たちは、交信しているようだ。

互いに互いのことを知っているようだ。

彼らは、種族が異なろうとも一切関係なく交信できるようである。

実に素晴らしいことだ。感嘆する。

大自然界では、みんながそうなのだろう。

食う食われるの間柄でも、そうなのだろう。

人間も見習わなくては。それができないのは人間だけなのだから。


以前にも話したが、昔、亡き次郎と狐が友達だった。

次郎の元へと、狐が遊びに来るのであった。

そこに「フード」が残っていれば、次郎は狐にそれを食べさせた。

次郎は静かに座って、狐の食べる姿を見守っていた。

だが狐は、フードが目当てで来るのでは無かった。

普段はそこに、フードは無かったのである。

フードの有無に一切関係なく遊びに来て、同じに遊んでいったのである。

狐は遊び終えて帰ると、その帰路の途中でホウルした。

次郎に向けて、「楽しかったね・・さようなら・・・」と告げるのだ。

次郎は悲しげな顔になってホウルを返す。

そうすると、我が家のみんなが、コーラスを送るのであった。

その当時、家には「猛者連中」が多かった。

だがその猛者連中も、その狐の来訪には実に寛大だった。

犬舎の内側から、じっと狐を見つめているだけだった。

熊たちからも一目置かれるような猛者連中だったのだが。

その狐の「さよならの歌」が、胸に迫った。

私はいつも目を閉じて、その歌を聴いた。


大自然が、ただ食う食われるの世界だと、いったい誰が言ったのだ。

大自然が、ただ生存と種の保存とバランスだけだと、いったい誰が決めたのだ。

熊も猪も狐も鳥たちも、心からの挨拶に来てくれる。

私は彼らに何もしてやれない。ただ一心に祈るしかない。

だがその一心が、彼らに伝わっていることを感じる。


■南無華厳 狼山道院■