<2010年10月16日>

大自然界のみんなが、同等である。

いかなる強者も、いつかは身を捧げる。

大自然界では誰もが、自分も食われることを覚悟している。

自分が食うだけでなく、自分も食われることを知っている。

だから自分が食われても、運命を呪わない。

自分が食われても、誰も憎まない。

自分が食われることに、誰も驚かない。

<命である以上、当然、我が身を守りたい・・>

<命である以上、当然、本能的に危険回避する・・>

だが大自然界のみんなは、それだけで生きてはいない。


だがしかし、人間の思考は違う。

自分は絶対に食われないと思っている。

自分が食われることなど悪夢だと思っている。

自分が食われることなど、あってはならないと思っている。

それは人間の普通の思考だと思う。

だが、その意識のままだと、大自然界のことは分からない。

その意識のままだと、スローガンの「自然との共生」など不可能だ。

だから我が身を守る本能とは別領域の意識で、

「自分も食われる側である」ことを認識する必要があるのだ。

「自分もまた、食われることがある・・・」と認識するのである。

自分が食われても、それは何ら不思議なことではない・・・・

自分が食われても、それは何ら不条理ではない・・・・

そのように根底で覚悟することによって、初めて大自然界が見えてくるのである。

大自然界では、それが普通なのである。それが普通感覚なのである。

もし共生を目指すのなら、その意識を知らなくてはならないのだ。

人間は、もし同族が食われれば、怒り心頭となるだろう。

もし同族が食われれば、復讐心の塊となるだろう。

そしてその復讐を、実行に移すだろう。

「感情」としては、当たり前かも知れない。

だがその人間感情では、大自然界を知ることはできないのである。


そして・・・・

その意識があって初めて、本当の「感謝」が訪れる。

自分が食う一方の意識では、真の感謝には到達できないのである。

自分もまた食われる側であることを自覚してこそ、感謝の意味が分かるのである。

人は感謝感謝と口にするが、食われる覚悟を持たずに真の感謝などあり得ないのである。

本当は「命は繋がっている・・・」という言葉は、簡単には口にできないのである。


どんな猛獣も、いつかは自分も食われることを覚っている。


■南無華厳 狼山道院■