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<2010年10月12日>

華厳仏教はつまり、羅針盤である。

御利益は謳わないが、偉大な羅針盤となってくれる。

人間には、羅針盤がどうしても必要なのである。

なぜなら人間には、「特殊な傾向性」があるからだ。

加減を知らず、エスカレートする傾向性があるのだ。

我欲に惑わされて暴走する傾向性を持っているのだ。

その傾向性は、単なる道徳律では制御が困難なのである。

それほどにその傾向性は強烈なのである。

なんで人間にその傾向性があるのか摩訶不思議だ。

だが感じるに、人間は「中途半端な知能」だからだと思う。

中途半端なレベルというのは、なにせタチが悪いのだ。

要するに「小利口」というやつだ。小利口はタチが悪いのだ。

これが「飛び抜けた知能」だったなら、まったく別の話となる。

「飛び抜けた知能」ならば、まったく別の発想で、別の道を歩んだだろう。

だいたい、人間の発想は、あまりに狭量で偏屈だ。

たとえば、この無限の大宇宙で、想像を絶したスケールの大宇宙で、

地球だけが生命体だと考えることなど、まったく頓珍漢な発想だと思う。

もし生命体が地球だけだとしたら、その方が奇跡中の奇跡だと思うのだが。

太陽系が無数にあり、さらに銀河系が無数にあり、さらにその宇宙が無数にあり、

それを考えれば、なんで生命体が地球だけなどと思えるのか、不思議でたまらない。

人間の傾向性とは、そのような発想にも如実に現われているのである。

※あるいは、人間だけが「心」を持っているとか、

人間は特別な立場の生き物であるとか、まったく意味不明な思考をするのである・・・・・


「道徳・倫理・規律・律法」は、人間の思考が生んだものである。

人によって民族によって国によって、すべてその正義観が異なる。

正邪の判断は人により民族により国により、すべて異なるのである。

だが、この世の真相は、人の思惑など関係ない。

人の思惑に関係なく、燦然と光り輝いている。

それを目指すための羅針盤が、華厳仏教なのである。

「羅針盤」だから、どのように目指そうと、人それぞれである。

ただし、目指すことが重大である。

辿り着くか着かないかよりも、目指すこと自体が重大なのである。

そこを目指していくと、いろんなことが変わってくる。

目指すだけでも、すべてが見違えるほどに変わってくるのである。


私はいつも、簡単な言葉で語ってきた。

できるだけ簡単に明快に語ってきたつもりである。

本当は華厳は、超難解仏教だと言われてきたのである。

それを皆さまに分かり易いように書いてきたのである。

そもそも華厳は、人間に向けて説かれたものでは無いと言われてきた。

釈尊が覚った真覚世界を、方便を使わずにそのまま記したものだと言う。

だから長きに亘り、人間世界は華厳を理解できなかったようである。

いや、理解というよりも、「実感」することが難しいのである。

あまりに途轍もないスケールで、あまりに超ダイナミックなので、

だから華厳の世界観を実感することが難しいのである。

だが長久の時が経ち、社会は変わり、世間も変わった。

だからそろそろ、華厳が羅針盤となる時代を迎えたようである。


華厳を、もし一言で述べよと言われたら、こう答える。

「天上天下唯我独尊」・・・・

「TENJYOTENGE YUIGADOKUSON」

この大宇宙のすべての存在が、唯一無二の個性である。

唯一無二の個性であるから、唯一無二の尊厳に彩られている。

つまり、あらゆる存在の尊厳は、無限に同等である。

あらゆる存在に、無限の尊厳が秘められているのである。

地の果ての砂漠に生きる一匹のサソリの身体に、大宇宙が宿っているのである。


人人がもしそれを「実感」できたなら、世の中はどうなるか??

世の中は、途轍もなく変わっていくだろう。

もちろん、「完全」など望むべくもない。

決して、そういう問題では無いのである。

最大の重大事は、「目指すこと・・目指す心境・・・」なのである。

それを知り、それを目指すこと・・・それこそが大事だと思うのだ。


「 一 切 従 心 転 」・・・ 心が、心の境地が、すべてを変えていく。


■南無華厳 狼山道院■