
華厳仏教はつまり、羅針盤である。
御利益は謳わないが、偉大な羅針盤となってくれる。
人間には、羅針盤がどうしても必要なのである。
なぜなら人間には、「特殊な傾向性」があるからだ。
加減を知らず、エスカレートする傾向性があるのだ。
我欲に惑わされて暴走する傾向性を持っているのだ。
その傾向性は、単なる道徳律では制御が困難なのである。
それほどにその傾向性は強烈なのである。
なんで人間にその傾向性があるのか摩訶不思議だ。
だが感じるに、人間は「中途半端な知能」だからだと思う。
中途半端なレベルというのは、なにせタチが悪いのだ。
要するに「小利口」というやつだ。小利口はタチが悪いのだ。
これが「飛び抜けた知能」だったなら、まったく別の話となる。
「飛び抜けた知能」ならば、まったく別の発想で、別の道を歩んだだろう。
だいたい、人間の発想は、あまりに狭量で偏屈だ。
たとえば、この無限の大宇宙で、想像を絶したスケールの大宇宙で、
地球だけが生命体だと考えることなど、まったく頓珍漢な発想だと思う。
もし生命体が地球だけだとしたら、その方が奇跡中の奇跡だと思うのだが。
太陽系が無数にあり、さらに銀河系が無数にあり、さらにその宇宙が無数にあり、
それを考えれば、なんで生命体が地球だけなどと思えるのか、不思議でたまらない。
人間の傾向性とは、そのような発想にも如実に現われているのである。
※あるいは、人間だけが「心」を持っているとか、
人間は特別な立場の生き物であるとか、まったく意味不明な思考をするのである・・・・・
「道徳・倫理・規律・律法」は、人間の思考が生んだものである。
人によって民族によって国によって、すべてその正義観が異なる。
正邪の判断は人により民族により国により、すべて異なるのである。
だが、この世の真相は、人の思惑など関係ない。
人の思惑に関係なく、燦然と光り輝いている。
それを目指すための羅針盤が、華厳仏教なのである。
「羅針盤」だから、どのように目指そうと、人それぞれである。
ただし、目指すことが重大である。
辿り着くか着かないかよりも、目指すこと自体が重大なのである。
そこを目指していくと、いろんなことが変わってくる。
目指すだけでも、すべてが見違えるほどに変わってくるのである。
私はいつも、簡単な言葉で語ってきた。
できるだけ簡単に明快に語ってきたつもりである。
本当は華厳は、超難解仏教だと言われてきたのである。
それを皆さまに分かり易いように書いてきたのである。
そもそも華厳は、人間に向けて説かれたものでは無いと言われてきた。
釈尊が覚った真覚世界を、方便を使わずにそのまま記したものだと言う。
だから長きに亘り、人間世界は華厳を理解できなかったようである。
いや、理解というよりも、「実感」することが難しいのである。
あまりに途轍もないスケールで、あまりに超ダイナミックなので、
だから華厳の世界観を実感することが難しいのである。
だが長久の時が経ち、社会は変わり、世間も変わった。
だからそろそろ、華厳が羅針盤となる時代を迎えたようである。
華厳を、もし一言で述べよと言われたら、こう答える。
「天上天下唯我独尊」・・・・
「TENJYOTENGE YUIGADOKUSON」
この大宇宙のすべての存在が、唯一無二の個性である。
唯一無二の個性であるから、唯一無二の尊厳に彩られている。
つまり、あらゆる存在の尊厳は、無限に同等である。
あらゆる存在に、無限の尊厳が秘められているのである。
地の果ての砂漠に生きる一匹のサソリの身体に、大宇宙が宿っているのである。
人人がもしそれを「実感」できたなら、世の中はどうなるか??
世の中は、途轍もなく変わっていくだろう。
もちろん、「完全」など望むべくもない。
決して、そういう問題では無いのである。
最大の重大事は、「目指すこと・・目指す心境・・・」なのである。
それを知り、それを目指すこと・・・それこそが大事だと思うのだ。
「 一 切 従 心 転 」・・・ 心が、心の境地が、すべてを変えていく。
■南無華厳 狼山道院■