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<2010年10月10日>

「食べ物」についての議論になると、必ず登場するのが、

「動物の尊厳を謳う人は、植物の尊厳は謳わないのか??」という質疑である。

「動物を食べないなら、植物も食べるべきではない・・・」という意見である。

「人間は<命>を頂戴して生きている。

動物にも命があるし、植物にも命がある。

動物も植物も、その尊厳に微塵も違いが無い。

だから人間は両者に対して<感謝>して食べていくのである・・・」

上の言葉が、圧倒的大多数の意見のようである。

判で押したように、この言葉で締めくくられて終わるのである。

まさに、ごもっとも、である。

誰もがこの金言の前に沈黙するのである。


だが果たして、その金言を語る者は、

「植物の尊厳」をどのように実感してきたのか??

実感が無ければ、尊厳など語ることはできない。

実感無しに語れば、それはただの理屈に過ぎないのだ。

「植物の尊厳」を実感できる人ならば、「動物の尊厳」も実感できる。

もし「植物の尊厳」を実感したならば、

動物の境遇の過酷な実態に対して、平気で傍観できるはずが無い。

少なくとも、「なんとかしなくては・・・」と葛藤するに違いない。

少なくとも、「感謝」の一言で済ませてしまうことなどできなくなる。

「殺す・殺さない」「食べる・食べない」の議論の前に、

その前に、その境遇の過酷さに、まずは目が向くはずなのである。

それ以前の問題として、その境遇の酷薄さに、胸を痛めるはずなのである。

同様に、「動物の尊厳」を実感できるのなら、「植物の尊厳」も実感できる。

したがって動物の尊厳を尊重する人は、植物の尊厳も尊重するはずである。

少なくとも「理屈」で物言う人よりは、植物を理解しているはずである。

少なくとも「感謝」の一言で済ます人よりも、植物を大事にしているはずである。


本当は、誰もが分かっていることなのである。

本当は、誰もが心で感じていることなのである。

頭の思考では理屈を編み出すが、実は心の奥底では、すでに真相を知っているのである。

すでに真相を知りながらも、「都合」によってそれを封印しているのである。

生活を謳歌する上では、真相よりも「都合」の方が大事なのである。

その「都合」の欺瞞を解消するするために、次次と理屈を編み出すのである。

植物と動物の感覚が、それぞれに異なることを。

植物と動物が、異なる感受性を持っていることを。

本当は誰もがそれを心の内に知っているはずなのである。


植物は、移動ができない。

植物は、逃げることができない。

植物は、その決定的に不利な境遇を生きる。

植物は、その境遇の中で、すべてを受容する。

だが植物は、酸素を与えてくれる。

だが植物は、水の確保もしてくれる。

だが植物は、あらゆる食糧の源となってくれる。

これ以上の慈悲心があるだろうか。

植物は、最も困難な慈悲を実践しているのである。

その植物に対して、大自然界の配慮がある。

大自然界の調和は絶妙だが、その配慮もまた絶妙なのである。

植物には、「神経細胞」が無い。

なぜに神経細胞が与えられていないのか??

それは大自然界の配慮であり、大慈悲心なのである。

もし植物の境遇に対してその配慮が無ければ、植物は使命を遂行することができなくなる。

それどころか、神経細胞による反応で、生きていること自体が苦しみそのものとなってしまう。

到底使命を遂行できないし、それ以前に「苦しむことが生きること」になってしまうのだ。

それでは不合理の極みである。不条理の極みである。

絶妙なる大自然界が、わざわざそんな不合理不条理を目論むはずがない。

だから大自然界は、植物に神経細胞を与えなかった。

だが植物は、厳然と命である。

たとえ神経細胞が無くとも、「意識」を持っている。

それは植物特有の意識である。動物の持つ意識とは異なる。

どちらが高等でどちらが下等など、そんな愚かな概念は無い。

それを比較することは無意味であり、比較できない領域である。

どちらも尊い意識である。どちらも唯一無二の個性を持っている。

植物の意識とは・・・それはつまり善意そのものである。

「与えること」が、彼らの喜びなのである。

だがこの「与えること」の意味が深く難しい。

人間の概念の「与えること」と、植物の「与えること」は、度量とスケールが違うのだ。

だから迂闊に人間がそれを解釈すると、誤った方向に進む怖れが出てくるだろう。

要するに、植物の真意を誤解して、植物を悲しませてしまうということだ。

植物の「喜び」を最大とするものは、「理解」である。

植物の真意を理解することが、植物に対する最大の御礼なのである。

ところで動物たちは、確かに何気なく植物を食している。

だが動物たちは、本能の奥深くで知っているのである。

動物たちは、植物に対する有難さを、無意識の内に覚っているのである。

動物たちは、本能で植物のことを理解しているのである。

「人間だって分かっているぞ!!」と言うかも知れないが、

分かっているなら、これまでの無謀で横暴な仕打ちは何だったのか??

分かっているならば、植物界に対する過剰な破壊行為はできなかったはずなのだが。

大自然界では、植物と動物は絶妙に共存している。

誰に教えられなくとも、程度をわきまえ、「足るを知る」心がけで、共存している。

そして動物は植物の御世話になっているだけでなく、

植物の手助けも充分に実践しているのである。

彼らは互いに助け合っているのである。

だが人間は、いつも戴く一方である。

植物への礼儀や御礼など、一度も考えなかったのである。


植物に、なぜ神経細胞が無いのかを、手短に話した。

ではなぜ動物に神経細胞が有るのか??

これは説明するまでも無いだろう。子どもでも分かるはずだ。

自分に置き換えてみれば、誰でも一発で分かることなのだ。

要するに「痛覚」とは、自己保存のためのセンサーである。

もし痛覚が無ければ、肉体は途端に損壊の一途を辿る。

要するに「痛くなければ」、己の肉体が壊れる自覚が無くなるのだ。

だからその損壊を防ぐために、痛覚が与えられているのである。

だから動物が生きていくためには必要不可欠の感覚なのである。

だからこそ痛覚とは、非常に鋭敏な感覚なのである。

この世に、辛いことは一杯ある。

だが最も強烈な辛苦は、「痛み」である。

どんな人間も、激烈な痛みの前には屈服する。

「麻酔」の存在を考えれば分かることだ。

「ペインクリニック」の存在を考えれば分かることだ。

人類の「拷問史」を振り返ってみれば分かることだ。

「私は耐えられる」という自信家は、本物の激痛を知らないだけである。

言語を絶した激痛の前では、すべての動物が恐怖に慄き、絶望に沈むのである。

だから「痛み」を軽く見てはならない。

それはとことん、現実問題なのである。

常に、「我が身に置き換えて」考えなくてはならないのである。

これらを考えれば、

「殺す・殺さない」「食う・食わない」だけの視座では済まされないことが分かるはずだ。

その視座だけの議論が、世界中で延延と繰り返されているが。


私は森に棲んでいる。

動物たちとの対話を修行してきた。

だが同時に、植物たちの感性も知ろうと努めてきた。

それ無しには、片手落ちになってしまうからだ。

森を歩けば、森に坐れば、植物たちがいろんなことを教えてくれる。

植物たちの世界も絶妙だ。唖然とするほどに凄い世界だ。

彼らは見事に「宥和」を実践している。

互いに相手を尊重し、謙譲の美徳に満ちている。


■南無華厳 狼山道院■