
「食べ物」についての議論になると、必ず登場するのが、
「動物の尊厳を謳う人は、植物の尊厳は謳わないのか??」という質疑である。
「動物を食べないなら、植物も食べるべきではない・・・」という意見である。
「人間は<命>を頂戴して生きている。
動物にも命があるし、植物にも命がある。
動物も植物も、その尊厳に微塵も違いが無い。
だから人間は両者に対して<感謝>して食べていくのである・・・」
上の言葉が、圧倒的大多数の意見のようである。
判で押したように、この言葉で締めくくられて終わるのである。
まさに、ごもっとも、である。
誰もがこの金言の前に沈黙するのである。
だが果たして、その金言を語る者は、
「植物の尊厳」をどのように実感してきたのか??
実感が無ければ、尊厳など語ることはできない。
実感無しに語れば、それはただの理屈に過ぎないのだ。
「植物の尊厳」を実感できる人ならば、「動物の尊厳」も実感できる。
もし「植物の尊厳」を実感したならば、
動物の境遇の過酷な実態に対して、平気で傍観できるはずが無い。
少なくとも、「なんとかしなくては・・・」と葛藤するに違いない。
少なくとも、「感謝」の一言で済ませてしまうことなどできなくなる。
「殺す・殺さない」「食べる・食べない」の議論の前に、
その前に、その境遇の過酷さに、まずは目が向くはずなのである。
それ以前の問題として、その境遇の酷薄さに、胸を痛めるはずなのである。
同様に、「動物の尊厳」を実感できるのなら、「植物の尊厳」も実感できる。
したがって動物の尊厳を尊重する人は、植物の尊厳も尊重するはずである。
少なくとも「理屈」で物言う人よりは、植物を理解しているはずである。
少なくとも「感謝」の一言で済ます人よりも、植物を大事にしているはずである。
本当は、誰もが分かっていることなのである。
本当は、誰もが心で感じていることなのである。
頭の思考では理屈を編み出すが、実は心の奥底では、すでに真相を知っているのである。
すでに真相を知りながらも、「都合」によってそれを封印しているのである。
生活を謳歌する上では、真相よりも「都合」の方が大事なのである。
その「都合」の欺瞞を解消するするために、次次と理屈を編み出すのである。
植物と動物の感覚が、それぞれに異なることを。
植物と動物が、異なる感受性を持っていることを。
本当は誰もがそれを心の内に知っているはずなのである。
植物は、移動ができない。
植物は、逃げることができない。
植物は、その決定的に不利な境遇を生きる。
植物は、その境遇の中で、すべてを受容する。
だが植物は、酸素を与えてくれる。
だが植物は、水の確保もしてくれる。
だが植物は、あらゆる食糧の源となってくれる。
これ以上の慈悲心があるだろうか。
植物は、最も困難な慈悲を実践しているのである。
その植物に対して、大自然界の配慮がある。
大自然界の調和は絶妙だが、その配慮もまた絶妙なのである。
植物には、「神経細胞」が無い。
なぜに神経細胞が与えられていないのか??
それは大自然界の配慮であり、大慈悲心なのである。
もし植物の境遇に対してその配慮が無ければ、植物は使命を遂行することができなくなる。
それどころか、神経細胞による反応で、生きていること自体が苦しみそのものとなってしまう。
到底使命を遂行できないし、それ以前に「苦しむことが生きること」になってしまうのだ。
それでは不合理の極みである。不条理の極みである。
絶妙なる大自然界が、わざわざそんな不合理不条理を目論むはずがない。
だから大自然界は、植物に神経細胞を与えなかった。
だが植物は、厳然と命である。
たとえ神経細胞が無くとも、「意識」を持っている。
それは植物特有の意識である。動物の持つ意識とは異なる。
どちらが高等でどちらが下等など、そんな愚かな概念は無い。
それを比較することは無意味であり、比較できない領域である。
どちらも尊い意識である。どちらも唯一無二の個性を持っている。
植物の意識とは・・・それはつまり善意そのものである。
「与えること」が、彼らの喜びなのである。
だがこの「与えること」の意味が深く難しい。
人間の概念の「与えること」と、植物の「与えること」は、度量とスケールが違うのだ。
だから迂闊に人間がそれを解釈すると、誤った方向に進む怖れが出てくるだろう。
要するに、植物の真意を誤解して、植物を悲しませてしまうということだ。
植物の「喜び」を最大とするものは、「理解」である。
植物の真意を理解することが、植物に対する最大の御礼なのである。
ところで動物たちは、確かに何気なく植物を食している。
だが動物たちは、本能の奥深くで知っているのである。
動物たちは、植物に対する有難さを、無意識の内に覚っているのである。
動物たちは、本能で植物のことを理解しているのである。
「人間だって分かっているぞ!!」と言うかも知れないが、
分かっているなら、これまでの無謀で横暴な仕打ちは何だったのか??
分かっているならば、植物界に対する過剰な破壊行為はできなかったはずなのだが。
大自然界では、植物と動物は絶妙に共存している。
誰に教えられなくとも、程度をわきまえ、「足るを知る」心がけで、共存している。
そして動物は植物の御世話になっているだけでなく、
植物の手助けも充分に実践しているのである。
彼らは互いに助け合っているのである。
だが人間は、いつも戴く一方である。
植物への礼儀や御礼など、一度も考えなかったのである。
植物に、なぜ神経細胞が無いのかを、手短に話した。
ではなぜ動物に神経細胞が有るのか??
これは説明するまでも無いだろう。子どもでも分かるはずだ。
自分に置き換えてみれば、誰でも一発で分かることなのだ。
要するに「痛覚」とは、自己保存のためのセンサーである。
もし痛覚が無ければ、肉体は途端に損壊の一途を辿る。
要するに「痛くなければ」、己の肉体が壊れる自覚が無くなるのだ。
だからその損壊を防ぐために、痛覚が与えられているのである。
だから動物が生きていくためには必要不可欠の感覚なのである。
だからこそ痛覚とは、非常に鋭敏な感覚なのである。
この世に、辛いことは一杯ある。
だが最も強烈な辛苦は、「痛み」である。
どんな人間も、激烈な痛みの前には屈服する。
「麻酔」の存在を考えれば分かることだ。
「ペインクリニック」の存在を考えれば分かることだ。
人類の「拷問史」を振り返ってみれば分かることだ。
「私は耐えられる」という自信家は、本物の激痛を知らないだけである。
言語を絶した激痛の前では、すべての動物が恐怖に慄き、絶望に沈むのである。
だから「痛み」を軽く見てはならない。
それはとことん、現実問題なのである。
常に、「我が身に置き換えて」考えなくてはならないのである。
これらを考えれば、
「殺す・殺さない」「食う・食わない」だけの視座では済まされないことが分かるはずだ。
その視座だけの議論が、世界中で延延と繰り返されているが。
私は森に棲んでいる。
動物たちとの対話を修行してきた。
だが同時に、植物たちの感性も知ろうと努めてきた。
それ無しには、片手落ちになってしまうからだ。
森を歩けば、森に坐れば、植物たちがいろんなことを教えてくれる。
植物たちの世界も絶妙だ。唖然とするほどに凄い世界だ。
彼らは見事に「宥和」を実践している。
互いに相手を尊重し、謙譲の美徳に満ちている。
■南無華厳 狼山道院■