
大自然界の命は、驚くべき「献身」をすることがある。
大自然界の誰もが、最終的に献身をしているのだが、
それとはまた違う表現で「献身」することがあるのだ。
誰しも、命が大事である。
誰だって生きたいし、誰だって死は恐怖だ。
そんなことは当たり前の話である。
だが大自然界は、それだけでは語れない。
それだけでは終わらないのが大自然界である。
大自然界の誰もが、自分の命を「世界」に捧げる日が来ることを知っている。
「世界」が、そのようにして成り立っていることを知っている。
だから誰もが、偉大な覚悟を秘めているのである。
だから誰もが、崇高な覚悟を秘めているのである。
彼らは最後の最後まで生きることに挑み、最後の最後まで生きようと尽くすが、
彼らは「生」を全うしようと全身全霊で力の限りに生きるのだが、
だが「献身の日」が来ることを、覚悟しているのである。
全力で生きることと、その日を覚悟するということは、別の話なのである。
さらに言えば、力の限りに生きているからこそ、覚悟することができるのである。
それぞれの献身が他のそれぞれを生かし、
他のそれぞれの献身が、また別の他のそれぞれを生かしていく。
そのすべてのそれぞれの献身が、大自然という命を存続させてきた。
ある命が、すべてのある命が、大自然という命に姿を変えていくのである。
だからそれぞれの献身がそれぞれに、計り知れなく偉大で崇高なのである。
ひとつの生が、ついに無限の生へと昇華するのであった。
この「献身」の感覚は、人間には分かりづらいだろう。
人間は命を「自分だけのもの」と思い込んでいるからだ。
人間は自分があたかも「独存」していると錯覚しているからだ。
人間は、ひたすら「我が命の権利」を主張することが正義だと思っているからだ。
だから献身を、「不幸」「悲劇」だと感じる人が多いのである。
だが実は、その思考が、己の力を奪い取っているのだが。
だが実は、その姿勢が、己の精神を追い込んでいるのだが。
我が身を可愛がっているようで、実は我が身を衰退させているのである。
我が身の自由を求めているようで、実は我が身を束縛しているのである。
実は、まったく逆なのである!!!
他者の境遇に想いを馳せ、他者の苦しみを知り悲しんだとき、
苦しむ他者を何とかしたいと思ったとき、この身を以って何とかしたいと思ったとき、
その人の命は最高度のエネルギーに満ち溢れるのである!!!
自分の心配ばかりして、自分の権利ばかり追求して、
いつも自分に関心を集中し、ひたすら自分を惜しむ人は、
ついには心身に破綻を期してしまうのである。
自分の思惑とは裏腹に、まさに真逆の結末となるのである・・・・・
献身する命は、大慈悲そのものである。
その命はそのとき、いかなる聖者よりも崇高な境地に到達する。
もちろん献身する命は、その境地を求めて覚悟するのではない。
境地を求めてのものならば、すでに献身とは呼べなくなるのである。
なぜ大自然の命は献身するのか??
それが何故かは、人間には分からないだろう。
その理由は、どんな学者にも分からないだろう。
だが確かに、大自然界では自らの命を、他者に与える場合がある。
病気や怪我で衰弱した状況という意味では無い。それとは違う意味である。
健康体でありながら、我が身を捧げる場合があるのだ。
昔、アメリカンネイティヴの人にも、そのような話を聞いた。
そのような話が、実際に実話としてあるのだという。
いったい何故なのか・・・・哲学者にも分からないだろう・・・・・
それは、「愛」なのである。
そのままの献身という、そのような表現の愛が、ときとして大自然界に現われるのだ。
動物を「生存本能」だけの視座で見る学者たちには、永遠に理解できないだろうが。
「動物機械論」に染まり続けた学問の視座では、その偉大な愛が見えないだろうが。
いや実は、それは大自然界だけの話には留まらない。
「家畜」となった動物たちにも、その愛が秘められているのである。
家畜たちが、なぜ必死に沈黙を努力しているのか、分かるだろうか??
彼らがなぜに狂奔して暴動しないかが、分かるだろうか??
彼らがなぜに渾身の力で猛り狂わないかが、分かるだろうか??
彼らがもし死を前にして本気に抵抗すれば、もし本気に猛り狂えば、どうなるか??
怖いから沈黙する・・諦めて沈黙する・・・それだけだと思っているのか??
家畜たちは、それだけで沈黙するのでは無いのである。
もちろん、殺されたくはない。
当たり前の話だ。話以前の話だ。
もちろん、死は果てしなく恐怖だ。
それまでの道中の恐怖と絶望は、言語を絶したものなのだ。
だが、家畜たちの心の深奥に、もうひとつの心境が隠されている。
「そうですか・・・それほどまでに私の命が欲しいのですか・・・・・」
「分かりました・・・怖くてたまらないけれど、この命を捧げます・・・・・」
もちろん、恐怖で足が竦むから曳きづられるし追い立てられる。
思わず涙も出るし悲鳴もあがる。四肢も硬直して動けなくなる。
だが、その極限状況の中でも精一杯に心を鎮めて、身を捧げる覚悟に入るのである。
極限状況下での、彼らのその崇高な境地を、分かってもらえるだろうか・・・・・・
そこに「祈り」無しには済まされない。
なんで祈り無く見送ることなどできようか。
「感謝」というのは、祈りである。
その命そのものに対する祈りなのである。
そこに祈りさえも無ければ、その命に対する本物の冒涜である。
大自然界の深奥の偉大なスピリットは、
家畜たちの生涯とその最期を見て、何を想い何を考えているか??
献身に対する祈りの実態を見て何を感じているのか??
まず、驚きの目で見ている。
そして耐え難い悲しみに入る。
そして、あることを決意している。
その偉大なスピリットからの伝言は、すでに届き始めている。
なお、「VEGETABILIA」と「ANIMALIA」とは、感受性が異なる。
植物界と動物界が、なぜに異なる感覚を持っているのかは、深い理由がある。
それについては、次回に書く。
≪写真は三日前に撮影≫
■南無華厳 狼山道院■