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<2010年10月8日>

大自然界の命は、驚くべき「献身」をすることがある。

大自然界の誰もが、最終的に献身をしているのだが、

それとはまた違う表現で「献身」することがあるのだ。


誰しも、命が大事である。

誰だって生きたいし、誰だって死は恐怖だ。

そんなことは当たり前の話である。

だが大自然界は、それだけでは語れない。

それだけでは終わらないのが大自然界である。

大自然界の誰もが、自分の命を「世界」に捧げる日が来ることを知っている。

「世界」が、そのようにして成り立っていることを知っている。

だから誰もが、偉大な覚悟を秘めているのである。

だから誰もが、崇高な覚悟を秘めているのである。

彼らは最後の最後まで生きることに挑み、最後の最後まで生きようと尽くすが、

彼らは「生」を全うしようと全身全霊で力の限りに生きるのだが、

だが「献身の日」が来ることを、覚悟しているのである。

全力で生きることと、その日を覚悟するということは、別の話なのである。

さらに言えば、力の限りに生きているからこそ、覚悟することができるのである。

それぞれの献身が他のそれぞれを生かし、

他のそれぞれの献身が、また別の他のそれぞれを生かしていく。

そのすべてのそれぞれの献身が、大自然という命を存続させてきた。

ある命が、すべてのある命が、大自然という命に姿を変えていくのである。

だからそれぞれの献身がそれぞれに、計り知れなく偉大で崇高なのである。

ひとつの生が、ついに無限の生へと昇華するのであった。


この「献身」の感覚は、人間には分かりづらいだろう。

人間は命を「自分だけのもの」と思い込んでいるからだ。

人間は自分があたかも「独存」していると錯覚しているからだ。

人間は、ひたすら「我が命の権利」を主張することが正義だと思っているからだ。

だから献身を、「不幸」「悲劇」だと感じる人が多いのである。

だが実は、その思考が、己の力を奪い取っているのだが。

だが実は、その姿勢が、己の精神を追い込んでいるのだが。

我が身を可愛がっているようで、実は我が身を衰退させているのである。

我が身の自由を求めているようで、実は我が身を束縛しているのである。

実は、まったく逆なのである!!!

他者の境遇に想いを馳せ、他者の苦しみを知り悲しんだとき、

苦しむ他者を何とかしたいと思ったとき、この身を以って何とかしたいと思ったとき、

その人の命は最高度のエネルギーに満ち溢れるのである!!!

自分の心配ばかりして、自分の権利ばかり追求して、

いつも自分に関心を集中し、ひたすら自分を惜しむ人は、

ついには心身に破綻を期してしまうのである。

自分の思惑とは裏腹に、まさに真逆の結末となるのである・・・・・


献身する命は、大慈悲そのものである。

その命はそのとき、いかなる聖者よりも崇高な境地に到達する。

もちろん献身する命は、その境地を求めて覚悟するのではない。

境地を求めてのものならば、すでに献身とは呼べなくなるのである。

なぜ大自然の命は献身するのか??

それが何故かは、人間には分からないだろう。

その理由は、どんな学者にも分からないだろう。

だが確かに、大自然界では自らの命を、他者に与える場合がある。

病気や怪我で衰弱した状況という意味では無い。それとは違う意味である。

健康体でありながら、我が身を捧げる場合があるのだ。

昔、アメリカンネイティヴの人にも、そのような話を聞いた。

そのような話が、実際に実話としてあるのだという。

いったい何故なのか・・・・哲学者にも分からないだろう・・・・・

それは、「愛」なのである。

そのままの献身という、そのような表現の愛が、ときとして大自然界に現われるのだ。

動物を「生存本能」だけの視座で見る学者たちには、永遠に理解できないだろうが。

「動物機械論」に染まり続けた学問の視座では、その偉大な愛が見えないだろうが。


いや実は、それは大自然界だけの話には留まらない。

「家畜」となった動物たちにも、その愛が秘められているのである。

家畜たちが、なぜ必死に沈黙を努力しているのか、分かるだろうか??

彼らがなぜに狂奔して暴動しないかが、分かるだろうか??

彼らがなぜに渾身の力で猛り狂わないかが、分かるだろうか??

彼らがもし死を前にして本気に抵抗すれば、もし本気に猛り狂えば、どうなるか??

怖いから沈黙する・・諦めて沈黙する・・・それだけだと思っているのか??

家畜たちは、それだけで沈黙するのでは無いのである。

もちろん、殺されたくはない。

当たり前の話だ。話以前の話だ。

もちろん、死は果てしなく恐怖だ。

それまでの道中の恐怖と絶望は、言語を絶したものなのだ。

だが、家畜たちの心の深奥に、もうひとつの心境が隠されている。

「そうですか・・・それほどまでに私の命が欲しいのですか・・・・・」

「分かりました・・・怖くてたまらないけれど、この命を捧げます・・・・・」

もちろん、恐怖で足が竦むから曳きづられるし追い立てられる。

思わず涙も出るし悲鳴もあがる。四肢も硬直して動けなくなる。

だが、その極限状況の中でも精一杯に心を鎮めて、身を捧げる覚悟に入るのである。

極限状況下での、彼らのその崇高な境地を、分かってもらえるだろうか・・・・・・

そこに「祈り」無しには済まされない。

なんで祈り無く見送ることなどできようか。

「感謝」というのは、祈りである。

その命そのものに対する祈りなのである。

そこに祈りさえも無ければ、その命に対する本物の冒涜である。


大自然界の深奥の偉大なスピリットは、

家畜たちの生涯とその最期を見て、何を想い何を考えているか??

献身に対する祈りの実態を見て何を感じているのか??

まず、驚きの目で見ている。

そして耐え難い悲しみに入る。

そして、あることを決意している。

その偉大なスピリットからの伝言は、すでに届き始めている。


なお、「VEGETABILIA」と「ANIMALIA」とは、感受性が異なる。

植物界と動物界が、なぜに異なる感覚を持っているのかは、深い理由がある。

それについては、次回に書く。


≪写真は三日前に撮影≫

■南無華厳 狼山道院■