<2010年10月7日>

分子生物学者の福岡教授は以下のように語っている。

「生命とは、

時計仕掛けのような、明確な要素と機能の一対一の対応があるのではなく、

要素と要素が相互作用をしながらぼんやりと作用をもたらす平衡状態があるだけ・・・

常に変化し続けるその生命現象を、私は<動的均衡>というふうに語っている・・・・」

決して「機械仕掛け」のような仕組みでは無いのだという。

決して「機械仕掛け」のような理屈では説明できないという。

「要素と要素が相互作用をしながら無常の動的均衡を続けていく」というのである。

福岡教授の話と同様な話が、「華厳仏教」にも語られている。

華厳はすでに1700年前に、そのようなことを語っているのである。

<華厳の話は、さらに延延と深奥に踏み込むが・・・>


たとえ科学分析によって「要素と機能」が判明したとしても、

それは生命の実相の発見にはならないのである。

肝心要は「要素と要素・要素と要素たち・要素たちと要素・要素たちと要素たち」の、

無限に続く相互作用であり、無限に続く変化であり、無限に続く動的均衡である。

さらに肝心要は、原初・大元の「意識」である。

それが無ければ、いかなる者も「始動」できないのである。

それが無ければ、最初の起動スイッチを「ON」にできないのである。

そしてその「意識」は、いかなる科学でも創造できないのである。

科学は、その原初の意識を有する者に対しては、多くの試みができる。

だが、「無限の相互作用・無限の動的均衡」の領域には、一歩も踏み込めない。

なにしろ、「無限」なのである。

想像を絶した異次元領域なのである。

そして科学は、意識を有さない物に対して意識を吹き込むことはできないのである・・・・・

生命を侮ってはならないのである。

生命を軽く見てはならないのである。

そこには、想像さえも叶わない無限世界が展開しているのである。

地の果ての砂漠に佇む一匹のサソリの身体にも、その大生命が息づいている・・・・・


福岡教授は殊勝な方だと感じる。

氏はこのように語っている。

「新しいことを言っている訳ではありません。

昔から人間が薄薄気付いていたことを、科学の言葉で表現しているだけなのです。

科学は、産業技術の奴隷になってはいけない。

科学の役目は、言葉を以って人人に<知ってもらうこと>なのです・・・・・」

氏は「科学ジャーナリスト賞」受賞の科学者である。

氏は科学者であるからこそ、なおさらに「生命の不思議」を実感しているはずである。

世界の超一流科学者の多くは、「サムシンググレート」を感じているようである。

むしろ今時の冷めた世間の方が、はるかに「理屈主義」だと感じる・・・・・・


科学が「知ること」だとしても。

科学が文明を支えるものだとしても。

生命に対する畏敬の念を失えば、それは科学ではなくなる。

畏敬の念を失って手段を選ばぬ暴走研究に走れば、まさに本末転倒となるのだ。

本末転倒となれば、いつか必ず「反動」が訪れる。

めぐりめぐって、いつか必ず反動の事象が起こるのだ。

だがその本末転倒に気付かぬ科学者も無数にいるようだ。

「頭」を使って没頭するうちに、心が麻痺してしまうのだろう。

本当は科学だからこそ、常に「心」を磨いていかねばならないのだ。

本当は科学だからこそ、崇高な精神性を求められるのである。


■南無華厳 狼山道院■