
動物の立場に同情すれば、
世間の多くは「人間よりも動物の方が大事なのか!!」と非難する。
「多少なりとも動物の立場も・・・」と語っても、
「なに??動物の方が優先か!!」と肩を怒らせて詰め寄る。
なにも「人間よりも動物の方が・・・」などという発想では無いのである。
「せめて・・・・」の想いで、最低限の尊厳を哀願しているに過ぎないのだ。
なにも、過保護を要求している訳では無いのである。
なにも、無理難題を要求している訳ではないのである。
それなのに世間の多くは、その哀願すらも赦さない。
人間のために耐え、人間のために働き、
人間に純情で応え、人間に献身してくれる動物たち。
彼らの立場を考えてみることが、何故そんなに気に入らないのか??
何故に「人間よりも・・・」という発想で排斥にかかるのか??
世間は、何かにつけて「感謝」という言葉を口にする。
「感謝」という言葉は、実に都合よく利用できるのだ。
その言葉は実に漠然としており、曖昧だからだ。
本心と裏腹に口先で「感謝」と述べても、それは認められる。
そこに「感謝」という言葉さえあれば、すべては赦されるのである。
だが、「感謝!!」の本当の意味はどうだろうか??
もしそこに本物の感謝があるのなら、「配慮心」が湧き起こるはずだ。
そこに本物の感謝があるのなら、いずれ行動が伴っていくはずなのだ。
そこに本物の感謝があるのなら、相手の境涯を理解しようと思うはずなのだ。
もしそれが無かったなら、それは決して「感謝」では無いのである。
もしそれが無かったなら、それは偽善の言葉に過ぎなかったのである。
世の中、「感謝」という言葉が氾濫している。
「感謝」という言葉ひとつで、運命さえも操られる。
耐え難い苦痛も、死よりも辛い生き地獄の運命も、その言葉ひとつで肯定される。
なにしろ「感謝」とは、こうも便利な魔法の言葉なのである。
「感謝」とは、そこに敬虔な心境があってこそ成立する。
「感謝」とは、そこに尊厳の感受があってこそ成立する。
「感謝」とは、そこに配慮心があってこそ成立する。
「感謝」とは、そこに行動が芽生えてこそ成立する。
「感謝」と口にするならば、その者の境涯を想うはずである。
その者の受ける痛みは、自分が耐えることができるのか??
その者の受ける苦しみは、自分が耐えることができるのか??
その者の感じる不安と恐怖を、自分が耐えることができるのか??
その者の悲しみは、はたして自分なら耐えることができるのだろうか??
「感謝」と口にするならば、そのようなことを想うはずである。
■南無華厳 狼山道院■