
保護飼養した動物を野生に帰すとき。
多くの場合に、希望的観測で放つと思われる。
それなりに予行練習をさせるとは思うが、
「最も重大な課題」についてはどうだろうか。
最も重大な課題は、「身体力」である。
野生界の誰もが、高次元の身体力を持っている。
その世界へと放たれたとき、それ無しには到底生きてはいけない。
もちろん「野性感覚」は第一条件だが、それは身体力が前提となるのだ。
ところで野性感覚は、空腹が続くと目覚め始める。
いよいよ「飢え」へと入れば、起動を開始する。
身体の深奥に刻まれた野性感覚が、いよいよ覚醒するのである。
<「飢え」とは、そのように大きな力を持つのである・・・・>
身体の深奥に刻まれた野性感覚とは、
そんな簡単に失われてしまう安っぽい紛い物では無いのである。
そんな簡単に失われるものなら、それは野性感覚とは呼べないのである。
野性感覚は、何千年何万年と生死の境界線上で練磨され続けてきた。
それはもはや身体の深奥に刻み込まれているのである。
だが、その野性感覚を発揮するには、身体力が絶対条件となる。
それが無ければ、せっかくの野性感覚を発揮しようが無いのである。
感覚が起動しても、身体が存分に動かなければ、意味を成さないのである。
だからその野性感覚を活かすために、身体力の鍛錬が絶対必要となるのだ。
もし山野に放たれて、
「飢え」によって野性感覚は覚醒されても、
そこに身体力が欠如していれば、食糧確保は不可能に近い。
どんどん飢えが進行し、ただ衰弱していくのみである。
だから衰弱する前に、なんとしてでも食糧確保を成功させねばならない。
そのためには、事前に身体力を鍛錬しておかねばならないのだ。
野生に帰す前に、毎日毎日の、変化に富んだ相当の運動量が必要なのである。
それを考えれば、「野生に帰す」ことが難しいことだと分かるはずだ。
「がんばってね!! しあわせに!!」だけでは済まされないのである。
野生に帰すのなら、せめてそれなりの身体造りをしてあげねば・・・・・
身体力が養成されていれば、野生界で生きられる可能性は高まるだろう・・・・・
因みに、身体力と運動感覚が合わさると、「運動能力」となる。
ここで言う野性感覚とは、「運動感覚をも含めた総合的な感覚」を指している。
そしてまた野性感覚とともに、「野性精神」も絶対の条件である。
だがその「野性精神・野性気力」も、その心の深奥に刻まれているのである。
野性のスピリットを人前では見せないだろうが、彼らはそれを秘めているのだ。
だが・・・だがしかし・・・・・
だがしかしその野性の命が、飼育員と心の交流を持った場合には・・・・・
その場合には、事態は複雑になる。
その野性の命は、本来とは別の領域に足を踏み入れているのだ。
彼らは本来とは異なる、新たな領域を知ったのだ。
同族との交流とは異なる、異種族との未知の交流は、彼らの心に深い感慨を与える。
それは人間が思う以上に、彼らの心に深く感慨を与える。
だから彼らがそこを去るときは、一大決心なのである。
後ろ髪を引かれながらも、想いを断ち切って飛び立つのである。
人間にはその情緒を見せないかも知れないが、
人間にはその情緒が感応できないかも知れないが、
そこには茜色に染まった愛惜の叙情が満ちているのである。
彼らはすでに予感している。
その野性で、すでにありありと予感している。
この先に、どれほど過酷な運命が待ち受けているかを。
この先に、尋常ならざる試練が待ち受けていることを。
彼らは、それを知っていながら飛び立つのである。
想いを断ち切り、大試練に向かって飛び立つ・・・・・
その光景には、このような哀しくも壮大なドラマが隠されているのである。
これは、「人間が手を貸すな・・・」という意味では無い。
すでに、世界中のあらゆる場所に、人間は関与しているのだ。
「手を貸すな・・」どころではなく、
すでに十二分に人間社会が影響を及ぼしているのであり、
「手を貸すな・・」という発想自体が「人間の驕り」なのである。
その「アクシデント」は、元を辿れば人間社会が原因かも知れぬのだ。
一頭の野生の命の運命にも、すでに人間社会の影響が行き渡っているのだ。
それを知れば、「手を貸すな・・」が、深い言葉では無いことが分かるはずだ。
「手を貸すな・・」は一見、ナチュラリストの言葉に感じるが、
必ずしもそうではないし、実に危うさを秘めた言葉なのである。
何事も、「時と状況によりけり・・・」である。
だが、その「時と状況によりけり・・・」の判断が難しいのである。
だからこそ、それについてを深く深く探求していかねばと思うのだ。
もうひとつ・・・・・
保護した野生動物との心の交流の意義は深い。
前述では、その野性の命の心の琴線について触れたが、
もし人間がその交流で真に感応できたなら、
その人間は重大な未知の認識を得ることができる。
その重大な未知の認識は、人間社会にとって絶大なヒントとなるだろう。
もし人間がそのヒントを本気で受け入れたなら、
その「大試練に向かって果敢に飛び立った野性の命」は、感無量であろう。
それはその野性の命への、最大の敬意となり、至上のエールとなる。
今は亡き家族の、狼の太郎や北極犬のライは、
私と暮らしながらも、野性の塊りだった。
その天性の野性は、微塵も損なわれることは無かった。
その領域を磨く試みなど無用だった。彼らは己の判断で野性を発揮した。
彼らは子どもの頃から、そのまま野性を発揮したのであった。
ただし、毎日毎日運動を続け、身体力の練磨は怠らなかった。
それは共に暮らす私の、彼らへの最低限の礼儀だったのだ・・・・・
私は彼らから無上の学びをもらった。
その学びを、このブログに書いてきた。
■南無華厳 狼山道院■