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<2010年9月29日>

保護飼養した動物を野生に帰すとき。

多くの場合に、希望的観測で放つと思われる。

それなりに予行練習をさせるとは思うが、

「最も重大な課題」についてはどうだろうか。


最も重大な課題は、「身体力」である。

野生界の誰もが、高次元の身体力を持っている。

その世界へと放たれたとき、それ無しには到底生きてはいけない。

もちろん「野性感覚」は第一条件だが、それは身体力が前提となるのだ。

ところで野性感覚は、空腹が続くと目覚め始める。

いよいよ「飢え」へと入れば、起動を開始する。

身体の深奥に刻まれた野性感覚が、いよいよ覚醒するのである。

<「飢え」とは、そのように大きな力を持つのである・・・・>

身体の深奥に刻まれた野性感覚とは、

そんな簡単に失われてしまう安っぽい紛い物では無いのである。

そんな簡単に失われるものなら、それは野性感覚とは呼べないのである。

野性感覚は、何千年何万年と生死の境界線上で練磨され続けてきた。

それはもはや身体の深奥に刻み込まれているのである。

だが、その野性感覚を発揮するには、身体力が絶対条件となる。

それが無ければ、せっかくの野性感覚を発揮しようが無いのである。

感覚が起動しても、身体が存分に動かなければ、意味を成さないのである。

だからその野性感覚を活かすために、身体力の鍛錬が絶対必要となるのだ。

もし山野に放たれて、

「飢え」によって野性感覚は覚醒されても、

そこに身体力が欠如していれば、食糧確保は不可能に近い。

どんどん飢えが進行し、ただ衰弱していくのみである。

だから衰弱する前に、なんとしてでも食糧確保を成功させねばならない。

そのためには、事前に身体力を鍛錬しておかねばならないのだ。

野生に帰す前に、毎日毎日の、変化に富んだ相当の運動量が必要なのである。

それを考えれば、「野生に帰す」ことが難しいことだと分かるはずだ。

「がんばってね!! しあわせに!!」だけでは済まされないのである。

野生に帰すのなら、せめてそれなりの身体造りをしてあげねば・・・・・

身体力が養成されていれば、野生界で生きられる可能性は高まるだろう・・・・・

因みに、身体力と運動感覚が合わさると、「運動能力」となる。

ここで言う野性感覚とは、「運動感覚をも含めた総合的な感覚」を指している。

そしてまた野性感覚とともに、「野性精神」も絶対の条件である。

だがその「野性精神・野性気力」も、その心の深奥に刻まれているのである。

野性のスピリットを人前では見せないだろうが、彼らはそれを秘めているのだ。


だが・・・だがしかし・・・・・

だがしかしその野性の命が、飼育員と心の交流を持った場合には・・・・・

その場合には、事態は複雑になる。

その野性の命は、本来とは別の領域に足を踏み入れているのだ。

彼らは本来とは異なる、新たな領域を知ったのだ。

同族との交流とは異なる、異種族との未知の交流は、彼らの心に深い感慨を与える。

それは人間が思う以上に、彼らの心に深く感慨を与える。

だから彼らがそこを去るときは、一大決心なのである。

後ろ髪を引かれながらも、想いを断ち切って飛び立つのである。

人間にはその情緒を見せないかも知れないが、

人間にはその情緒が感応できないかも知れないが、

そこには茜色に染まった愛惜の叙情が満ちているのである。

彼らはすでに予感している。

その野性で、すでにありありと予感している。

この先に、どれほど過酷な運命が待ち受けているかを。

この先に、尋常ならざる試練が待ち受けていることを。

彼らは、それを知っていながら飛び立つのである。

想いを断ち切り、大試練に向かって飛び立つ・・・・・

その光景には、このような哀しくも壮大なドラマが隠されているのである。


これは、「人間が手を貸すな・・・」という意味では無い。

すでに、世界中のあらゆる場所に、人間は関与しているのだ。

「手を貸すな・・」どころではなく、

すでに十二分に人間社会が影響を及ぼしているのであり、

「手を貸すな・・」という発想自体が「人間の驕り」なのである。

その「アクシデント」は、元を辿れば人間社会が原因かも知れぬのだ。

一頭の野生の命の運命にも、すでに人間社会の影響が行き渡っているのだ。

それを知れば、「手を貸すな・・」が、深い言葉では無いことが分かるはずだ。

「手を貸すな・・」は一見、ナチュラリストの言葉に感じるが、

必ずしもそうではないし、実に危うさを秘めた言葉なのである。

何事も、「時と状況によりけり・・・」である。

だが、その「時と状況によりけり・・・」の判断が難しいのである。

だからこそ、それについてを深く深く探求していかねばと思うのだ。

もうひとつ・・・・・

保護した野生動物との心の交流の意義は深い。

前述では、その野性の命の心の琴線について触れたが、

もし人間がその交流で真に感応できたなら、

その人間は重大な未知の認識を得ることができる。

その重大な未知の認識は、人間社会にとって絶大なヒントとなるだろう。

もし人間がそのヒントを本気で受け入れたなら、

その「大試練に向かって果敢に飛び立った野性の命」は、感無量であろう。

それはその野性の命への、最大の敬意となり、至上のエールとなる。


今は亡き家族の、狼の太郎や北極犬のライは、

私と暮らしながらも、野性の塊りだった。

その天性の野性は、微塵も損なわれることは無かった。

その領域を磨く試みなど無用だった。彼らは己の判断で野性を発揮した。

彼らは子どもの頃から、そのまま野性を発揮したのであった。

ただし、毎日毎日運動を続け、身体力の練磨は怠らなかった。

それは共に暮らす私の、彼らへの最低限の礼儀だったのだ・・・・・

私は彼らから無上の学びをもらった。

その学びを、このブログに書いてきた。


■南無華厳 狼山道院■