<2010年9月26日>
昨夜は午後7時で、気温5度だった。
こんなに早く気温が「一桁」になるとは・・・
一桁になってしまえば、すでに冬へと加速している。
また、あの世界が近づいているのだ。
すべてが凍る、白銀の世界が・・・・
夜の森で瞑目する。
犬たちの世話と運動を終えて森に坐る。
山のみんなは元気だろうか・・・
山に食糧はあるのだろうか・・・
猪たち、熊たち、キツネたち、カモシカたち・・・
なんとか、いっぱい食べれることを願う。
冬が来る前に食べておかなければ、ここの酷寒を越すことはできないのだ。
坐って瞑目していると、遠くからかすかに枝を踏む足音が聞こえてくる。
いろんな方向から聞こえてくる夜も多い。
誰の足音か・・・踏む音の重厚感で少しは見当がつくが・・・
ここに私が坐っていることを知っているように、毎夜のように来るのだ・・・・
十五夜の夜は、ラップ音が凄かった。
あちらこちらの方向から、ずっと鳴り響いていた。
よく聴けば、その音色はすべて違う。
その音のひとつひとつに個性を感じる。
いったいそれは何の音なのか??
辺りに人間など一人もいない。鉄砲の音では無い。木から出る音では無い。
大気の衝撃音か?? それにしては方角がいろいろ過ぎる。
ひとつ思うことは、単なる物理現象の音とは違うということだ。
もう20年もこの音を聞き続けてきたから、それは確信できるのだ。
そこに濃密な、何かの気配を感じるのだ。
ラップ音を真近に聞くと、そこに独特の緊張感が漂うのだ。
犬たちはみんな、その音に慣れている。
それが人工の音では無いことを知っているし、警戒もしない。
だが、その音が鳴る直前から、犬たちの顔付きが変わるのだ。
何かに深く傾注し、真剣な眼差しでその音の方向を見据える。
彼らのその様子を見れば、それが単なる物理的音響ではないことが分かる。
彼らには何かが見えている。私には見えないものが見えている。
犬と暮らしている人は知っているはずだが、
犬たちの感応力は人間とは比較にならないレベルなのである。
私は彼らの超感覚から、いろんなことを学ばせてもらった。
ラップ音を、何が何でも物理現象にさせたがる人も多い。
私は別にそれが常現象でも超常現象でもどちらでもいいのだが、
躍起になって超常現象を否定したがる人の心理の方が、超常現象に思えるのである。
私は別にそれが霊現象であろうと無かろうとどちらでもいいのだが、
ひたすら霊的な何かを否定したがる人の心理の方が、異常現象に思えるのである。
なんで超常現象があってはならないのか??
なんで霊的な現象があってはならないのか??
なんで解析不能なことが世の中にあってはならないのか??
私には「あってはならない!!」の心理が、とにかく不可解なのである。
この世に超常的な何かがあると、何か困ることでもあるのだろうか??
もしかしてその人たちは怖いのか??
もしかして理解不能領域が怖いのか??
それを解析できないと不安になってしまうのか??
その否定する人人は、何日間か一人で山に入って、夜の闇に佇んでみるといい。
そうするといろんなことが起こるから、きっと「実感」できるに違いない・・・・・
いつも思うが、もっと「自然体」でいればいいのに。
かたくなに否定するのではなく、
「不思議なこともあるんだな・・・」と自然体で受け止めればいいのに。
なんで自然体でいられないかが、不思議でならないのだ。
私はそういう人たちに問いたい。
「あなたの心は、理屈で説明できますか??」
「あなたは自分の心を、理屈で制御できますか??」
「あなたの心を、第三者が理屈で分析できると思いますか??」
・・・自分の心でさえ、摩訶不思議なのである・・・・・・
かといって、すべてを霊現象に結びつける風潮も実に不自然だ。
なにもかも霊現象に結びつけてしまうと、現実を歩けなくなるだろう。
肝心なのは、「そういう場合もあり得る・・・」という自然体の見方だと思う。
あるいは、そういう超常現象や霊現象を「飯の種」にする人が多いのか??
金に結び付けようとする人が多いから、世間に拒絶意識が生まれるのか??
私が思うに、たとえそういう「商売人」がいたとしても、気にする必要など無い。
そういう話に対して過剰に警戒すれば、自分の心力を減退させることになる。
いつでも、自然体でいいのである。
堂堂と、話を聞いてやればいいのである。
存分に喋らせてやればいいのである。
それをじっくりと聞いていれば、やがてはっきりと分かるのである。
その話が本物かどうか。その体験が本物かどうか。
その人物は結局何を語りたいのか。その人物の心の状態はどうなのか。
その人物は何を求め何をしたいのか・・・・それらが分かるのである。
堂堂と自信を持って深静の心境で聞き、
「忙しいので今日はさようなら。お話ありがとうございました!!」で別れればいい。
もし参考になる話をしてもらったなら、心からの御礼を述べればいい。
相手がしつこく引き止めたなら、「しつこい人は信用できない!!」と宣言すればいい。
中には逆に反論を用意してその人物を「やっつけてやる!!」と意気込む人もいるだろう。
だがそれは不自然な姿勢であり、すでに邪心であり、心力を失っている。
自分に自信が無いから相手をやっつけて自信を得たいだけなのである。
身体を固めて意気込んでも、心力は高まらない。
肝心なのは、自然体である。
だがこの自然体が、実は一番難しいのである。
だからこそ普段からそれを目指す姿勢でいることが大事なのである。
何事も、目指さなければ、絶対に到達できないのである。
■南無華厳 狼山道院■
昨夜は午後7時で、気温5度だった。
こんなに早く気温が「一桁」になるとは・・・
一桁になってしまえば、すでに冬へと加速している。
また、あの世界が近づいているのだ。
すべてが凍る、白銀の世界が・・・・
夜の森で瞑目する。
犬たちの世話と運動を終えて森に坐る。
山のみんなは元気だろうか・・・
山に食糧はあるのだろうか・・・
猪たち、熊たち、キツネたち、カモシカたち・・・
なんとか、いっぱい食べれることを願う。
冬が来る前に食べておかなければ、ここの酷寒を越すことはできないのだ。
坐って瞑目していると、遠くからかすかに枝を踏む足音が聞こえてくる。
いろんな方向から聞こえてくる夜も多い。
誰の足音か・・・踏む音の重厚感で少しは見当がつくが・・・
ここに私が坐っていることを知っているように、毎夜のように来るのだ・・・・
十五夜の夜は、ラップ音が凄かった。
あちらこちらの方向から、ずっと鳴り響いていた。
よく聴けば、その音色はすべて違う。
その音のひとつひとつに個性を感じる。
いったいそれは何の音なのか??
辺りに人間など一人もいない。鉄砲の音では無い。木から出る音では無い。
大気の衝撃音か?? それにしては方角がいろいろ過ぎる。
ひとつ思うことは、単なる物理現象の音とは違うということだ。
もう20年もこの音を聞き続けてきたから、それは確信できるのだ。
そこに濃密な、何かの気配を感じるのだ。
ラップ音を真近に聞くと、そこに独特の緊張感が漂うのだ。
犬たちはみんな、その音に慣れている。
それが人工の音では無いことを知っているし、警戒もしない。
だが、その音が鳴る直前から、犬たちの顔付きが変わるのだ。
何かに深く傾注し、真剣な眼差しでその音の方向を見据える。
彼らのその様子を見れば、それが単なる物理的音響ではないことが分かる。
彼らには何かが見えている。私には見えないものが見えている。
犬と暮らしている人は知っているはずだが、
犬たちの感応力は人間とは比較にならないレベルなのである。
私は彼らの超感覚から、いろんなことを学ばせてもらった。
ラップ音を、何が何でも物理現象にさせたがる人も多い。
私は別にそれが常現象でも超常現象でもどちらでもいいのだが、
躍起になって超常現象を否定したがる人の心理の方が、超常現象に思えるのである。
私は別にそれが霊現象であろうと無かろうとどちらでもいいのだが、
ひたすら霊的な何かを否定したがる人の心理の方が、異常現象に思えるのである。
なんで超常現象があってはならないのか??
なんで霊的な現象があってはならないのか??
なんで解析不能なことが世の中にあってはならないのか??
私には「あってはならない!!」の心理が、とにかく不可解なのである。
この世に超常的な何かがあると、何か困ることでもあるのだろうか??
もしかしてその人たちは怖いのか??
もしかして理解不能領域が怖いのか??
それを解析できないと不安になってしまうのか??
その否定する人人は、何日間か一人で山に入って、夜の闇に佇んでみるといい。
そうするといろんなことが起こるから、きっと「実感」できるに違いない・・・・・
いつも思うが、もっと「自然体」でいればいいのに。
かたくなに否定するのではなく、
「不思議なこともあるんだな・・・」と自然体で受け止めればいいのに。
なんで自然体でいられないかが、不思議でならないのだ。
私はそういう人たちに問いたい。
「あなたの心は、理屈で説明できますか??」
「あなたは自分の心を、理屈で制御できますか??」
「あなたの心を、第三者が理屈で分析できると思いますか??」
・・・自分の心でさえ、摩訶不思議なのである・・・・・・
かといって、すべてを霊現象に結びつける風潮も実に不自然だ。
なにもかも霊現象に結びつけてしまうと、現実を歩けなくなるだろう。
肝心なのは、「そういう場合もあり得る・・・」という自然体の見方だと思う。
あるいは、そういう超常現象や霊現象を「飯の種」にする人が多いのか??
金に結び付けようとする人が多いから、世間に拒絶意識が生まれるのか??
私が思うに、たとえそういう「商売人」がいたとしても、気にする必要など無い。
そういう話に対して過剰に警戒すれば、自分の心力を減退させることになる。
いつでも、自然体でいいのである。
堂堂と、話を聞いてやればいいのである。
存分に喋らせてやればいいのである。
それをじっくりと聞いていれば、やがてはっきりと分かるのである。
その話が本物かどうか。その体験が本物かどうか。
その人物は結局何を語りたいのか。その人物の心の状態はどうなのか。
その人物は何を求め何をしたいのか・・・・それらが分かるのである。
堂堂と自信を持って深静の心境で聞き、
「忙しいので今日はさようなら。お話ありがとうございました!!」で別れればいい。
もし参考になる話をしてもらったなら、心からの御礼を述べればいい。
相手がしつこく引き止めたなら、「しつこい人は信用できない!!」と宣言すればいい。
中には逆に反論を用意してその人物を「やっつけてやる!!」と意気込む人もいるだろう。
だがそれは不自然な姿勢であり、すでに邪心であり、心力を失っている。
自分に自信が無いから相手をやっつけて自信を得たいだけなのである。
身体を固めて意気込んでも、心力は高まらない。
肝心なのは、自然体である。
だがこの自然体が、実は一番難しいのである。
だからこそ普段からそれを目指す姿勢でいることが大事なのである。
何事も、目指さなければ、絶対に到達できないのである。
■南無華厳 狼山道院■