








狼山道院は野性界の寺です。
野性界の、動物寺です。
ですから野性界の立場で動物たちを祈ります。
ですから人間社会の価値観では語りません。
ですから人間社会の世界観では語りません。
人間側の価値観世界観で動物を語る記事は、既に無数にあります。
ですから野性界動物寺は、それとは別の視座で語ります。
それはリスクを負うことを意味しますが、それを承知で語ります。
動物たちは、人間と共通する言語を持ちません。
ですから何ひとつ、人間に本意を伝えることができません。
すべては人間側の憶測で解釈された形にされてしまいます。
だからこそ野性界動物寺が、その本意を代弁していこうと思います。
それが狼山道院「狼寺」の使命だと覚悟しています。
狼寺は、祈りの毎日です。
野性界から、華厳の祈りを捧げています。
我われの堂宇は、「山」です。
山が、野性界動物寺の堂宇です。
ここは動物たちの寺なのです。
動物たちの寺であり、動物たちと祈るのです。
華厳の大慈悲に見守られて祈ります。
大自然を見守る華厳経は、スーパースケールです。
それは人間の宗教観を超えたスケールだと思います。
狼寺は、その大華厳観で祈りを捧げています。
華厳に頼るのではありません。
頼るのではなく、一体となるのです。
世界中の動物たちを祈るために。
理不尽の中で苦しむ世界中の動物たちを祈るために。
そのために、華厳大悲と一体にならねばなりません。
そうでなければ、到底この本願は叶えられないでしょう。
それほどに事態は途轍もなく難題であり、至難中の至難なのです。
のほほんと形だけで祈る程度では、動物たちを護ることなど不可能です。
だからこそ、華厳そのものとなって祈っていくのです。
頼るのではなく拝むのではなく、一体となり、そのものとなる。
修行精進を重ね、華厳そのものとなることを目指し続けるのです。
世界中の動物たちの悲痛な叫びが聴こえるのです。
世界中の動物たちの悲痛な哀願が聴こえるのです。
彼らへの祈りの力を、極限まで高めていきたいのです。
※「意識」が、行動を呼び起こします。
「意識」が変われば、行動も変わるのです。
しかし「意識」が変わらねば、何も変わっていきません。
局限的な対処では、いつまで経っても繰り返しで終わります。
だからこそ「意識」に向けて、祈りを捧げていくのです。
動物たちを祈ると同時に、「意識」に対して祈っていくのです。
「なんだ、宗教かよ!!」と言われようが、そんなことは構いません。
たとえ宗教であろうと無かろうと、祈りの力が高まることこそ重大です。
宗教であろうと無かろうと、そんなことは問題では無いのです。
そんな巷の概念に囚われている場合ではないのです。
動物たちが過酷な理不尽から救われること、それが本願なのです。
人間は、人間社会から「人権」を護られます。
人権擁護機関は世界中に沢山ありますし、
人間への非道に対しては、何よりも「世論」が赦しません。
「世論」という絶大な味方が援護してくれるのです。
しかし動物の場合には、世論も味方などしてくれません。
もし味方すれば、「変人扱い・カルト扱い」されて村八分になるのです。
だから結局、「たかが動物!!」で終わるしかないのです。
だからこそ狼山道院は、あくまでも野性界動物寺であり続けます。
人間社会のしがらみを超えて、純粋な真意を発信していきたいのです。
金も無ければ人脈も無ければ地位も無ければ名誉もありません。
何もかもが無いのに、心はいつも大願に満ちています。
明日食う米が無くとも、心はいつも大願を忘れません。
損得勘定から逸脱した挙句に、
どん底の辛酸を味わい尽くす中でも、大願は不動のままです。
なんでこんなにもその大願は揺らがないのか。自分でも不思議です。
この長い年月に於いて、迷いが生じたことなど一度も無かったのです。
それは何故か?? これが自分の使命だからです。
「あんた、山ん中で何やってんの???」
「何やってんだか、さっぱり分かんないよ???」
「あんた、寂しくないの??? あんた、里に降りれば???」
二十何年間、こんなふうに言われ続けてきましたが・・・・・
狼山道院は人間社会の動物霊園ではありません。
しかしここには、無数の魂が訪れます。
動物たちの無数の魂が、この山に訪れるのです。
夜の山で華厳の祈りを捧げれば、辺りは無数の光に満ち満ちます。
損得思考に染まらぬ山だから、だから光たちが来てくれるのだと思います。
■南無華厳 狼山道院■