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<2010年9月24日>

狼山道院は野性界の寺です。

野性界の、動物寺です。

ですから野性界の立場で動物たちを祈ります。

ですから人間社会の価値観では語りません。

ですから人間社会の世界観では語りません。


人間側の価値観世界観で動物を語る記事は、既に無数にあります。

ですから野性界動物寺は、それとは別の視座で語ります。

それはリスクを負うことを意味しますが、それを承知で語ります。

動物たちは、人間と共通する言語を持ちません。

ですから何ひとつ、人間に本意を伝えることができません。

すべては人間側の憶測で解釈された形にされてしまいます。

だからこそ野性界動物寺が、その本意を代弁していこうと思います。

それが狼山道院「狼寺」の使命だと覚悟しています。


狼寺は、祈りの毎日です。

野性界から、華厳の祈りを捧げています。

我われの堂宇は、「山」です。

山が、野性界動物寺の堂宇です。

ここは動物たちの寺なのです。

動物たちの寺であり、動物たちと祈るのです。

華厳の大慈悲に見守られて祈ります。

大自然を見守る華厳経は、スーパースケールです。

それは人間の宗教観を超えたスケールだと思います。

狼寺は、その大華厳観で祈りを捧げています。


華厳に頼るのではありません。

頼るのではなく、一体となるのです。

世界中の動物たちを祈るために。

理不尽の中で苦しむ世界中の動物たちを祈るために。

そのために、華厳大悲と一体にならねばなりません。

そうでなければ、到底この本願は叶えられないでしょう。

それほどに事態は途轍もなく難題であり、至難中の至難なのです。

のほほんと形だけで祈る程度では、動物たちを護ることなど不可能です。

だからこそ、華厳そのものとなって祈っていくのです。

頼るのではなく拝むのではなく、一体となり、そのものとなる。

修行精進を重ね、華厳そのものとなることを目指し続けるのです。

世界中の動物たちの悲痛な叫びが聴こえるのです。

世界中の動物たちの悲痛な哀願が聴こえるのです。

彼らへの祈りの力を、極限まで高めていきたいのです。

※「意識」が、行動を呼び起こします。

「意識」が変われば、行動も変わるのです。

しかし「意識」が変わらねば、何も変わっていきません。

局限的な対処では、いつまで経っても繰り返しで終わります。

だからこそ「意識」に向けて、祈りを捧げていくのです。

動物たちを祈ると同時に、「意識」に対して祈っていくのです。


「なんだ、宗教かよ!!」と言われようが、そんなことは構いません。

たとえ宗教であろうと無かろうと、祈りの力が高まることこそ重大です。

宗教であろうと無かろうと、そんなことは問題では無いのです。

そんな巷の概念に囚われている場合ではないのです。

動物たちが過酷な理不尽から救われること、それが本願なのです。

人間は、人間社会から「人権」を護られます。

人権擁護機関は世界中に沢山ありますし、

人間への非道に対しては、何よりも「世論」が赦しません。

「世論」という絶大な味方が援護してくれるのです。

しかし動物の場合には、世論も味方などしてくれません。

もし味方すれば、「変人扱い・カルト扱い」されて村八分になるのです。

だから結局、「たかが動物!!」で終わるしかないのです。

だからこそ狼山道院は、あくまでも野性界動物寺であり続けます。

人間社会のしがらみを超えて、純粋な真意を発信していきたいのです。


金も無ければ人脈も無ければ地位も無ければ名誉もありません。

何もかもが無いのに、心はいつも大願に満ちています。

明日食う米が無くとも、心はいつも大願を忘れません。

損得勘定から逸脱した挙句に、

どん底の辛酸を味わい尽くす中でも、大願は不動のままです。

なんでこんなにもその大願は揺らがないのか。自分でも不思議です。

この長い年月に於いて、迷いが生じたことなど一度も無かったのです。

それは何故か?? これが自分の使命だからです。

「あんた、山ん中で何やってんの???」

「何やってんだか、さっぱり分かんないよ???」

「あんた、寂しくないの??? あんた、里に降りれば???」

二十何年間、こんなふうに言われ続けてきましたが・・・・・


狼山道院は人間社会の動物霊園ではありません。

しかしここには、無数の魂が訪れます。

動物たちの無数の魂が、この山に訪れるのです。

夜の山で華厳の祈りを捧げれば、辺りは無数の光に満ち満ちます。

損得思考に染まらぬ山だから、だから光たちが来てくれるのだと思います。


■南無華厳 狼山道院■