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<2010年9月21日>

命たちは、この今生で、それぞれの姿を纏っている。

そのそれぞれの姿も、確かに、唯一無二の個性である。

その姿なくしては語れない場合も、確かにあるだろう。

だが、その姿だけに目を奪われていたら、肝心なものが見えなくなる。

その外形だけに囚われていたら、重大な何かが見えなくなる。

最も肝心なもの、それは心であり、魂である。


※心と言っても、魂と言っても、心魂と言ってもいい。

心と言うのは「魂の表現」のことである。 魂の表現が「心」である。

※仏教に於いては、普通は「魂」という言葉は避けるが、私はその言葉を使う。

心の母体を、心の根源を、確かに実感するからである。

心は、一瞬の中にも無数の様相を呈すが、その核心は「一心」である。

その一心とは、魂のことである。

※はるか古代の高僧たちがそれを実体験で実感してきたことは間違いないが、

彼らは敢えてその視座での説法は説かなかったようである。

それどころか、それを否定してきた。

世間に過剰なオカルティック解釈されることを危惧したのだと思う。

過剰にオカルティックで呪術的な傾向となれば、本来の渡世力が削がれてしまうからだ。

おそらく仏教はそれを心配して言葉を慎んできたのだと思うのだ。

人間の認識できる領域は、極極わずかな領域だ。

人間の認識できない領域の方が、比較にならないほどに圧倒的に広大だ。

だが最初からその圧倒的な領域の話を説いても、誰も理解できない。

だから仏教は常に世間の「機根」を待たねばならなかった。

仏教を説くには「時機」が重要だったのである。


命たちは、「鼓動する光」である。

それぞれの姿を纏ってはいるが、その奥の実像は、鼓動する光である。

それが命たちの、魂の姿なのである。

たとえば馬も羊も牛たちも。

たとえば犬も猫も熊も虎も狼も。

みんなそれぞれに、鼓動する光である。

たとえば、犬を見たとする。

犬は一見、犬の姿を見せている。

だが目を凝らせば、それが「鼓動する光」であることが見える。

「犬」という生き物である前に、「鼓動する光」だと分かるのである。

それが、その犬の命の姿の実像である。

その実の姿を見れば、その犬に対する見方は根底から変わるだろう。

命たちは種を超えて、すべからく「鼓動する光」である。

それを知れば、あらゆる概念が変わっていくはずである。


これまで、その「鼓動する光」の姿を見てきた。

そのとき、もはや「動物」という概念は彼方に消えた。

そこにあるのは、ただただ尊い命であった。

だが、いつでも見れる訳ではない。

心の状態が、それを見れる境地の時に見れるのだろう。

だがしかし、それに近い状態を見ることは常に可能だ。

「心眼」の姿勢でいれば、それは可能なのである。

これは決して「呪術・心霊術」の部類ではない。

どこまでも「心眼」なのである。


■南無華厳 狼山道院■