





写真::18年前。
「ハン」一歳半くらい。「ルウ」生後4ヶ月くらい。二頭とも元野良犬。
ハンとルウの交歓ドラマの、幕開けの瞬間。
ハンは物凄いエネルギー。ルウも精一杯に着いて行く。
ハンは延延と、30分でも一時間でも続ける。
あまりにハンがタフで執拗なので、ルウは抗議する。
ハン「もっともっと!!!」 ルウ「もういいよ!!もういやだ!!!」
私「ハン!!いい加減にしろ!! もう終わりだ!!!」
ハン「分かったよお父さん・・もっと遊びたいけど・・・」
私「分かったな・・また明日遊ぶから・・・さあ、帰ろう!!!」
ハン:ルウ「楽しかった楽しかった楽しかった!!!」
野良犬の頃、彼らは失意の中で耐えていた。
だが、こうして家族となった。
今は信じる者と暮らす喜びの中にいる。
エサが欲しくて一緒にいるんじゃない。
雨露しのぐために一緒にいるんじゃない。
共に生きる約束が、それが彼らの家だった。
暗黙の中の心と心の約束が、それが聖なる家だった。
ハンは、16歳でこの世を去った。
ルウは、13歳でこの世を去った。
この光景が、まるで昨日のことのように思える。
我が胸に刻まれた、永遠の一瞬一瞬・・・・・・・・
犬たちは、よく遊ぶ。
犬に限らず、動物たちは、よく遊ぶ。
犬も猫も牛も馬も羊もヤギもウサギも、みんなよく遊ぶ。
犬猫以外の動物たちも、犬猫と全く同様に、感性に満ちた交歓の遊びを楽しむ。
彼らの交歓の姿を見れば、彼らの遊ぶ姿を見れば、
彼らがただ「生存本能」だけで生きている訳で無いことが一目瞭然だ。
彼らの命が深い感性に彩られていることが火を見るよりも明らかだ。
それを知れば、おのずといろんなことが見えてくる。
飼育方法や飼育環境も、おのずと是非の判断が明らかになる。
ましてや、それが幼獣だったら、いっそう重大な問題だ。
子どもたちの胸中は、興味や冒険心や交歓への憧れでいっぱいなのだ。
それが結果として「学習」にはなるのだが、
それ以前に、子どもたちの心の切なる願いなのである。
教育を目的とする前に、彼らの心の躍動の輝きを見つめたいのである。
心の躍動の輝きを見つめていると、いろんなことが分かってくる。
そこに隠された動物たちのいろんな心境が、ありありと伝わってくる。
そこには重大なヒントが、いっぱい隠されているのである。
彼らの心の世界とは・・・・
彼らがどうやって成長していくのか・・・・
心の躍動が、交感交歓が、それがどうのように成長の糧となっていくのか・・・・・
彼らは、子どもの頃の、その無邪気な時期の思い出を、憶えている。
忘れているように見えても、彼らはしっかり憶えている。
ときどきそれを、懐かしそうに彼らは思い出す。
それは心の深奥に仕舞われた、大事な大事な宝物なのである。
子どもたちには、できる限りに、遊ばせてあげたい。
世界中の子どもたちが、思い切り遊べたならと、心から願う。
だが生まれた時から、ずっとずっと、狭い狭い檻の中で暮らす子もいる。
身動きさえままならぬケージの中で育つ子もいる。
どんなに遊びたいだろう・・・・
どんなに駆け回りたいだろう・・・・
どんなに、ふざけたり相撲したり鬼ごっこしたいだろう・・・・
だが最初からそれを無視する飼い方が存在する。
それが眼中に無い飼育人が、世界中に無数に存在する。
本来に反した、非道の行為が、無数に存在する。
信じられないが、それが事実なのである。
徹頭徹尾、徹底的に無視することが、なぜできるのか???
「なぜできるのか・・・」これこそが人間の深秘である。
※もちろん、それぞれに地域環境が異なり住環境が異なる。
存分な躍動が困難な場合も多いに違いない。
だが、遊ばせる方法は千差万別である。
その方法も手段も千差万別であり、すべてはアイデア次第である。
肝心なことは、その空間の中で工夫を凝らすということだ。
その「工夫を凝らす」という気持ちが大事だと思うのだ。
動物を管理下に置くことは人間の権利かも知れないが、
だが、たとえその権利があったとしても、
動物たちの感情を情緒を感性を無視した飼い方は、許されるものではないはずだ。
それを無視するということは、つまりは己の感性を壊していくということだ。
相手が人間であろうと動物であろうと、そこに働く感性の根源は一緒だ。
元を辿れば、それはひとつの泉から湧き上がっている。
それは決して別別の泉ではないのである。
今は亡き、他界した多くの家族たち。
彼らの姿が、今もありありと瞼の奥に浮かぶ。
一頭たりとも、忘れてはいない。
みんなの面影が、今もなおこの胸に生き続けている。
彼らが教えてくれた。
この世のすべての命が、そうなんだと。
どんな動物のどんな誰もが、海よりも深い感性に彩られていることを。
■南無華厳 狼山道院■