<2010年9月15日>

「犬の社会性???」という言葉を多く聞く。

それについての講釈があちこちで語られている。

たまにそれらの講釈を読んでみるが、

いったい何を語りたいのかが見えてこない。

そこに「心から湧きあがる自分の言葉」を感じない。

何か、強引に型に押し込めるような理屈に感じてならない。

そもそもその「社会性」という言葉に、何か欺瞞の匂いを感じてならないのだ。

そもそも「社会性」とは何なのか??

そこで言う「社会」とは何なのか??

犬社会なのか??人間社会なのか??家庭社会なのか??

それともその全ての社会を含んだ社会なのか??

人間は犬を、そもそもその全ての社会に合致させるために造ってきたのか??

人間はそれぞれがそれぞれの都合で犬種を造ってきたのではなかったのか??

そこにはその人間の個人的な都合と嗜好が濃厚に反映されているのではないのか??

特殊な用途に使うためには、特殊な傾向性の犬種が求められる。

特殊な傾向性だから当然のごとくに「一般」とは異なってくる。

最初からそれを承知の上で、その傾向性の犬種を造ったはずなのだ。

「一般性」とは異なるから、不都合な部分も出てくるだろう。

だがそんなことは内心は承知で作出してきたはずなのだ。

もしその傾向性による弊害が出てきたとしたなら、

まずは最初の目論見を反省すべきだと思うのだ。

そもそも「一般性の範囲の中での能力」で満足すべきだったと思うのだ。

だが人間はそれでは満足しないから、半ば弊害を承知で特殊性の方を選んできた。

だがその犬種は、「需要」によって世間全体に広がった。

そうなれば当然、いろんな場面で不都合が生じてくる。

そんなことは最初から予測できたはずなのだが。

のみならず、人間は矛盾する要求まで犬に求めるようになった。

人間は犬に、本来ならば相反する両面までも望むようになった。

これでは犬は大変だ。

大変どころか、分裂症になってもおかしくないだろう。

これでは「スーパー八方美人!!」を求められているようなものだ。

だが人間は、そんなことにはお構い無しだ。

「なんでもかんでも人間様の言う通りにすればそれでいいのだ!!」と思っている。


人間は、犬の身体の構造まで玩具にして弄んできた。

異常に小さい犬。異常に短吻の犬。異常に短肢の犬。などなどなど・・・・・

日常に於いてさえ極めて支障をきたす肉体構造に変えられてしまった犬・・・・・

たとえば、異常に小さい犬たち・・・彼らの胸中が分かるだろうか。

彼ら極小型犬は、自分が非力であることを知っている。

自分が我が身を守れない身体であることを知っている。

自分が敵う相手などどこにもおらず、自分が一番弱い存在だと知っている。

いくら気の強い犬だとしても、実は自分の非力を知っている。

だから彼らは生き延びるために、彼らなりの思いを持っている。

警戒心の塊となることもある。

脅えに慄く性格になることもある。

非常な向こう気の強さとなることもある。

怖さ余って攻撃的になることもある。

それらは、しかたのないことである。

人間が、そのような非力な身体に造ってしまったのだ。

人間が、それを我が身に置き換えてみれば、即座に理解できるはずだ。

実際に、ほんの僅かな衝撃で、極小型犬などは致命傷を負ってしまうのだ。

その不安、その恐怖が、人間に分かるだろうか??

そのような犬にまで「社会性!!社会性!!」と求めるが、

それを口にする人は、咄嗟の時に、本当に犬を守れるのだろうか??

不測の事態の瞬間に、その犬を身を挺して守れるのだろうか??

<そもそも極小型犬は、アクティブな領域を無視して作出されたはずなのだ・・・>

※そもそも、ある部分を強調すればある部分は減退する。

どこかを強調して作出すれば、どこかを失っていくこととなる。

ある遺伝形質を発現させていこうとすれば、

目には見えない多くの優れた形質を捨てていくことにもなる。

自然界に於いては絶妙に深秘の遺伝が行なわれるが、人為に於いてはそれと較べようも無い。


私は人からは誤解されているようだが、もし人里に犬連れで出た場合には、人一倍慎重である。

人との間合いを計り、他家の犬との間合いを計り、その道が狭ければ迂回して過接近を避ける。

我われが嫌なのではない。我われが困るのではない。

もし相手が過接近によって動揺すれば申し訳ないから、それで避けるのである。

何もわざわざ余計なハプニングを呼び込む必要は無いのである。

もし犬に社会性を教えるなら、それなりの場面で教えればいいのである。

不測の事態が起こらないように配慮した場面で教えればいいのである。

実際に、飼主が脳天気ゆえの「事故」は起こるのである!!!

そして・・・世間には「犬嫌い」が大勢いる。

愛犬家の人たちは、そこら辺の認識が甘いと感じる。

口では「犬好き」と言っても、現実には「犬嫌いに近い人」が大多数なのだ。

愛犬家の人たちは、そこが分かっていない場合が多いと思うのだ。

私は、その人がどの程度に犬好きなのか直感で分かる。

だから、それなりの「間合い」を維持する。

犬好き犬嫌いは理屈では無いから、口で説明したところで事態は進展しないのだ。

たとえば、2CHの「生物嫌い」のスレッドでも見れば、

世の中には如何に「動物を嫌悪する人間」が多いかが一発で分かる。

そしてそのような人たちが、世間では圧倒的勢力を持っているのである。

<愛犬家の方も向学のために、一度そのようなサイトを見ておいた方がいいと思う・・>

つまり現段階の社会とは、「人間絶対主義社会」である。

犬に社会性を求めるということは、そこでの社会性を指しているのである。

<社会は口では「共生!!」と叫びながら、実は動物蔑視の実態なのである・・>


犬種の中には、元は闘犬種もいる。狩猟犬もいる。護衛犬もいる。

その歴史の過程では徹底的な特殊化が図られただろうし、

その遺伝が未だに色濃く発現する場合も多いと思われる。

だから「犬種」を選んで飼う飼主は、

その犬種特有の特徴を充分に把握しておくべきだと思う。

それがその犬種に対する礼儀だと思うのだ。

それがその犬に対する理解であり愛情であると思うのだ。

※その意味では「MIXDOG」の個性を把握するのは、より難しいかも知れない。

その犬にどんな特徴が潜んでいるかを知るには、ただただ深い洞察に懸かっている。


ただ闇雲に当然のごとくに「なかよく!!なかよく!!」を求めたら危険だ。

それは危険だし、それは犬を理解していることにはならない。

それはむしろ「犬を知らない」ということになる。

犬には犬の「隠された事情」がある。

犬には犬の「隠された立場」がある。

犬には犬の「隠された暗黙の掟」がある。

そこには「暗黙の間合い」も隠されているのである。

そして犬同士には犬同士の、目には見えない交信が隠されているのである。

その犬の隠された心理を、犬同士に隠された交信を、

それを明らかに掌握できる人ならば自信を持っていいかも知れないが、

そうでなければ真剣勝負の心構えで「社会性」に臨むべきだと思うのだ。

※かといって飼主は過度の緊張感を漂わせてはならない。それは禁物である。

その緊張感は必ず犬に伝わり、不自然な事態を招いてしまうからである。

※人間は犬に「社会性!!」と叫ぶが、

その前に、飼主としての己を磨くことが先決だと思う。

飼主が主人としての己を磨けば、犬の心境も必ず変わる。


犬の「咬みによる表現」も著しく誤解されているようだ。

人間の皮膚は弱いから、だから仕方の無いことだとは思うのだが、

だからと言って子犬に対しても「支配性増幅」と捉える風潮は困りものだ。

警戒するのは勝手だが、それを誤解で終わったら、犬への理解もそこで終わりなのだ。

犬の咬みには無数の表現が隠されている。

咬みは犬にとっては重大な表現方法なのである。

もちろん愛情の甘咬みもそうであり、犬同士では普通の交感方法なのである。

ただ、それを愛情表現の甘咬みだと判別できない人なら、話はそこで終わる。

だが誤解はその人の勝手だが、

それとは別の話として、犬の真意を知っておくことは必要だ。

甘咬みを嫌うことと犬の真意を理解することは、全く別の話であるのだ。

ただし、甘咬みであろうとも、それをエスカレートさせてはならない。

何事にも「程度・節度・加減」があり、犬同士もそれを暗黙の掟としているのである。

「程度・節度・加減」は感覚世界であり難しい領域だが、それは実に重大なのである。


ところで世間全体も、犬に対する認識が必要だと思う。

「犬」は世間のいたるところにいる。

いたるところにいるのだから、それに対しての認識は必要だと思うのだ。

もはや誰もが犬に関する知識を有するべきだと思うのだ。

それがあって初めて「互いの社会性」となるはずなのだ。

そうでなければ「一方通行」の片手落ちであり、犬が余りにも哀れである。

犬に社会性を求めるのならば、人間側も犬への社会性を持ってもらいたいのだ。

※人間は犬に対しては「社会性」を要求するが、

果たして人間の「社会性の実態」はどうなのだろうか??

たとえば、現代社会に馴染めない人も多いと思う。

学校に馴染めない子も多いだろうし、他人に馴染めない子も多いだろうし、

職場に馴染めず世間に馴染めない大人も多いと思う。

共通の言語を有する人間同士でさえ、社会性とは難しい問題なのである。

それを考えれば、犬に対してそう簡単に社会性を口にはできないはずなのだ。


もちろん、社会性はあった方が都合がいい。

それに対して、可能な範囲でチャレンジすることは重要だ。

それは普通に当たり前の話である。

だが、「事情」を無視した無理解な強制に意義は無いと思う。

そしてまた、百頭の犬がいれば百の個性があり、百の表現があり、百の社会性がある。

「その犬の表現での社会性」もあることを知るべきだと思うのだ。

※たとえば、生育期にスキンシップを欠かさないとか、身体への刺激に慣れさせるとか、

あるいは体格の近い子犬同士で遊ばせるとか、知り合いに触ってもらうとか、

そういうことは当たり前のことであって、社会性という言葉を持ち出すまでも無い。

<ただし、触り方には配慮が必要である・・・>


そして思うに、「社会性」と言う前に、「心の成長」を考えてみたらどうだろうか。

犬が心の成長を遂げていけば、おのずと「対応能力」も高まってくる。

ここで言う「成長」とは、条件付けで覚えた「しつけ」や芸当では無い。

純粋な意味での「心の成長」である。

上っ面の条件反応ではなく、犬が「己」として判断していくのである。

愛犬家の真の喜びは、その犬の「心の成長」に尽きると思うのだが・・・・・

犬の心は、成長する。

死のその時まで成長する。

<他界の後も学びの旅は続くが・・・>


この記事は、動物界側からの視座で書いたものである。


■南無華厳 狼山道院■