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<2010年9月9日>

私と犬たちは、森に棲んでいる。

我われはここで、野性禅に入る。

それは我われにとって重要な日課である。


ただ山にいる森にいるでは、

自然界の精神を知ることはできない。

ただそこにいるだけでは山の命の鼓動を聴くことはできない。

だから毎日、瞑目の時を過ごす。

別に時間は決めない。できる時に瞑目する。

いつでもいいから、短くてもいいから、その時間を設ける。

極端に言えば、10分でもいい。

瞑目の時を設けるということが、肝心なのだ。

どんなに忙しい日でも、

いや、忙しい日ならなおさらに、

深く瞑目し、そして野性禅の世界に入るのだ。


生きている以上、

毎日毎日、いろんなことが起こる。

心の中は、波が渦巻き、泡だらけだ。

その渦巻いた波と泡を放っておけば、大事なことが見えなくなる。

大事なことが見えなくなるばかりか、身体も不調となっていく。

その波を鎮め、泡を消し去り、本来の状態に戻す。

日課の風呂のように、日に一度、瞑目で心を洗う。

テレビを見る時間があるのなら、

電話でお喋りする時間があるのなら、

その中の僅かな時間を、瞑目に使ってみればいいと思う。

だからこれは、どんな忙しい人にも出来ることだ。

そして慣れれば、これは不可欠の日課になるはずだ。


なにも構えて坐禅を組む必要など無い。

要は、毎日続けることが肝心なのだ。

自分のスタイルで構わない。

そのうちだんだん、そのスタイルが洗練されてくる。

ところで近頃「一日坐禅道場」とかが流行っているらしい。

だがそこで坐禅に出逢っても、いったい何人の人が続けていくのだろうか。

わざわざ道場に出向いて坐禅に触れても、続けなければ何の意味も無い。

だから構えて坐禅するよりも、自分の続けられるスタイルを見つけるべきだと思う。

<続ければそのうち自然と「様」になってくるはずだ・・・>

なにも無念無想とか無心とかを意識することなどない。

ただ「落ち着く」ことが肝心である。

日常の中で、果たして本当に落ち着ける時間はあるのだろうか??

テレビがある。パソコンがある。あるいは同居人がいる。会話がある。

その環境の中で、本当に落ち着けるのだろうか??

だから本当に落ち着ける時間を設けるだけでも、重大な意義があるのだ。

そしてその時間を日課にしていけば、やがて次の境地が訪れるのである。

※あらゆる命に、「落ち着く時間」が必要である。

人間だけではない。あらゆる命である。

犬にも猫にも、家畜たちにも、野生動物にも、そしてすべての命たちに。

以前どこかの動物園で、確か手長猿の種類の猿が、「禅」に入っていた。

それはまさしく、禅であった。

私の心は、その姿に釘付けになった。

その猿は坐り、両手を大きく広げて、虚空を見据えていた。

そして、微塵もその姿勢を崩さなかった。

それが、何十分と続いたのである。

私も坐り、その見事な姿を、見つめ続けた。

心の底から感動が湧き上がり、涙が溢れた。


毎日毎日、新たな世界が幕を開ける。

新たな気持ちで新たな世界を生きる。

そのためには、余計なものを捨てていかねばならない。

余計なものを抱えていたら、新たな世界で生きられない。

余計なものを抱えていたら、新たな力は生まれてこない。

その余計なものの代表は、「囚われの心」だ。

心が何かに囚われていたら、一歩も前に進めなくなる。

その「囚われの心」の代表は、嫉妬と猜疑だ。

嫉妬と猜疑は、心の力をとことん奪う。

その人の力を見事に奪ってしまうのだ。

だからそこから自由になっただけで、力は飛躍的に高まる。

禅はひとつには、「囚われ」から解き放たれるためにあるのだ。

人を羨んだら、自分は無くなる。

人を妬んだら、自分は無くなる。

疑いに終始すれば、自分は無くなる。

偏見に満ちた疑心の姿勢が、その姿勢の習慣が、自分を壊していく。

嫉妬と猜疑が自分自身を壊していく。

嫉妬と猜疑が、ことごとく自分の潜在力を奪っていく。

自分を可愛がっているつもりが、自分を痛めつけているのである。

※「疑わなければ自分を守れない」と人は言うが、だが疑心で生きたところで身は守れない。

それどころか、逆に邪心者の思う壺に嵌るだろう。

疑心に染まった人は力を失っている。そうなれば邪心者の思う壺なのである。

疑心から解放された人は力に満ちている。だから容易に「偽・邪」を見破るのである。


野性禅に型は無い。自在形だ。

だが禅那に辿り着くために、深い瞑目に入る。

その深い瞑目の中に、無想の禅境があり、感応の禅境がある。

心の波を鎮めて深静境に入ったあと、インスパイアが訪れる。

森とひとつになって、大自然を旅するのである。

犬たちも、その境地に入る。

犬たちにも、そのひと時が重要なのである。

彼らは、ただ楽しく過ごせばそれでいいなどとは思っていない。

彼らは、その瞑目の時を深く味わい、そして大事にしているのである。

彼らは、私などより遥かに野性禅の達人なのだ。

狼の太郎の野性禅は凄かった。

彼のその姿は、この胸の深奥に刻まれている。


■南無華厳 狼山道院■