
私と犬たちは、森に棲んでいる。
我われはここで、野性禅に入る。
それは我われにとって重要な日課である。
ただ山にいる森にいるでは、
自然界の精神を知ることはできない。
ただそこにいるだけでは山の命の鼓動を聴くことはできない。
だから毎日、瞑目の時を過ごす。
別に時間は決めない。できる時に瞑目する。
いつでもいいから、短くてもいいから、その時間を設ける。
極端に言えば、10分でもいい。
瞑目の時を設けるということが、肝心なのだ。
どんなに忙しい日でも、
いや、忙しい日ならなおさらに、
深く瞑目し、そして野性禅の世界に入るのだ。
生きている以上、
毎日毎日、いろんなことが起こる。
心の中は、波が渦巻き、泡だらけだ。
その渦巻いた波と泡を放っておけば、大事なことが見えなくなる。
大事なことが見えなくなるばかりか、身体も不調となっていく。
その波を鎮め、泡を消し去り、本来の状態に戻す。
日課の風呂のように、日に一度、瞑目で心を洗う。
テレビを見る時間があるのなら、
電話でお喋りする時間があるのなら、
その中の僅かな時間を、瞑目に使ってみればいいと思う。
だからこれは、どんな忙しい人にも出来ることだ。
そして慣れれば、これは不可欠の日課になるはずだ。
なにも構えて坐禅を組む必要など無い。
要は、毎日続けることが肝心なのだ。
自分のスタイルで構わない。
そのうちだんだん、そのスタイルが洗練されてくる。
ところで近頃「一日坐禅道場」とかが流行っているらしい。
だがそこで坐禅に出逢っても、いったい何人の人が続けていくのだろうか。
わざわざ道場に出向いて坐禅に触れても、続けなければ何の意味も無い。
だから構えて坐禅するよりも、自分の続けられるスタイルを見つけるべきだと思う。
<続ければそのうち自然と「様」になってくるはずだ・・・>
なにも無念無想とか無心とかを意識することなどない。
ただ「落ち着く」ことが肝心である。
日常の中で、果たして本当に落ち着ける時間はあるのだろうか??
テレビがある。パソコンがある。あるいは同居人がいる。会話がある。
その環境の中で、本当に落ち着けるのだろうか??
だから本当に落ち着ける時間を設けるだけでも、重大な意義があるのだ。
そしてその時間を日課にしていけば、やがて次の境地が訪れるのである。
※あらゆる命に、「落ち着く時間」が必要である。
人間だけではない。あらゆる命である。
犬にも猫にも、家畜たちにも、野生動物にも、そしてすべての命たちに。
以前どこかの動物園で、確か手長猿の種類の猿が、「禅」に入っていた。
それはまさしく、禅であった。
私の心は、その姿に釘付けになった。
その猿は坐り、両手を大きく広げて、虚空を見据えていた。
そして、微塵もその姿勢を崩さなかった。
それが、何十分と続いたのである。
私も坐り、その見事な姿を、見つめ続けた。
心の底から感動が湧き上がり、涙が溢れた。
毎日毎日、新たな世界が幕を開ける。
新たな気持ちで新たな世界を生きる。
そのためには、余計なものを捨てていかねばならない。
余計なものを抱えていたら、新たな世界で生きられない。
余計なものを抱えていたら、新たな力は生まれてこない。
その余計なものの代表は、「囚われの心」だ。
心が何かに囚われていたら、一歩も前に進めなくなる。
その「囚われの心」の代表は、嫉妬と猜疑だ。
嫉妬と猜疑は、心の力をとことん奪う。
その人の力を見事に奪ってしまうのだ。
だからそこから自由になっただけで、力は飛躍的に高まる。
禅はひとつには、「囚われ」から解き放たれるためにあるのだ。
人を羨んだら、自分は無くなる。
人を妬んだら、自分は無くなる。
疑いに終始すれば、自分は無くなる。
偏見に満ちた疑心の姿勢が、その姿勢の習慣が、自分を壊していく。
嫉妬と猜疑が自分自身を壊していく。
嫉妬と猜疑が、ことごとく自分の潜在力を奪っていく。
自分を可愛がっているつもりが、自分を痛めつけているのである。
※「疑わなければ自分を守れない」と人は言うが、だが疑心で生きたところで身は守れない。
それどころか、逆に邪心者の思う壺に嵌るだろう。
疑心に染まった人は力を失っている。そうなれば邪心者の思う壺なのである。
疑心から解放された人は力に満ちている。だから容易に「偽・邪」を見破るのである。
野性禅に型は無い。自在形だ。
だが禅那に辿り着くために、深い瞑目に入る。
その深い瞑目の中に、無想の禅境があり、感応の禅境がある。
心の波を鎮めて深静境に入ったあと、インスパイアが訪れる。
森とひとつになって、大自然を旅するのである。
犬たちも、その境地に入る。
犬たちにも、そのひと時が重要なのである。
彼らは、ただ楽しく過ごせばそれでいいなどとは思っていない。
彼らは、その瞑目の時を深く味わい、そして大事にしているのである。
彼らは、私などより遥かに野性禅の達人なのだ。
狼の太郎の野性禅は凄かった。
彼のその姿は、この胸の深奥に刻まれている。
■南無華厳 狼山道院■