<2010年9月7日>

鹿による食害が深刻だという。

鹿が増えて山の植物相にも影響が出ているという。

百年前に日本狼が絶滅したので、それで鹿が増えたという。

鹿を捕食する鹿捕食者は、日本狼だけだったのだ。

日本狼が滅んだことによって、本州の生態系が崩れてしまったという。

だからその生態系を回復しなければならないという。

それでその対策案として、「外国から狼を移入して山に放つ」という構想があるという。


「外国から狼を移入して山に放つ・・・」・・・・・・

それに関するシンポジウムが開かれ、議論が交わされているという。

学者や研究家が集まってプロジェクトを組み、活発に啓蒙活動が行なわれているようだ。

その啓蒙内容の概容は以下のようである。

「狼移入の正当性//狼による生態系の秩序の回復・人間に対する狼の安全性」・・・・・・

それに対して思うことがある。あくまでも私観である。

私は学者でもなければ研究家でもないが、そこに何かを強く感じるのである。

当面は、確かに鹿は減り続け、秩序回復の効果は出るかも知れない。

だが果たして事態はその効果面だけで終わるだろうか??

思いもよらぬ不測の事態が起こりはしないだろうか??


そこで一番問題となるのは、世間の意識である。

なにせ人人は山の動物に対して並並ならぬ敵愾心を抱く。

危険だ!!早く捕まえろ!!ワナを仕掛けろ!!

生意気に人間様の縄張りに侵入しやがって!!

みんなを集めて山狩りをしろ!!

武器を持て!!追い込め!!取り囲め!!

逃がすな!!絶対逃がすな!!思い知らせてやれ!!

畜生の分際で人間を怖がらせやがって!!

虐め倒してやれ!!苦しませろ!!苦しませてから殺せ!!

分かったか!!人間様は強いんだ!!思い知れ!!!

・・・大袈裟な描写と感じるかも知れないが、

実際に世界中で「見せしめ!!」が行なわれてきた。

「怖い怖い!!」・・・が転じて残酷な復讐心となる。

「目障り!!邪魔だ!!」・・・が転じて残酷なサド嗜好が湧きあがる。

「ただじゃあ殺さない!!そう簡単には殺さない!!苦しめ!!」となる。

あるいは、「食えそうだな!!美味そうだな!!こいつを肴に酒盛りだ!!」となる。

あるいは、「もうちょっと太らせてから食おう!!檻を作って閉じ込めろ!!」となる。

・・・たとえばこのような心境は何も特別な傾向ではないのだと感じる。

今まで、いろんな人からいろんな話をいっぱい聞いてきた。

その時はいつも、ただ黙って聞いてきた。

存分に喋ってもらって人間の本音を聞き、事の本質を知る勉強とした。

そこで感じたことは、それは当然のことかも知れないが、

「動物の立場など眼中に無い・・・」ということだった。

その動物の事情を鑑みるという発想自体が無かったのである。

古代から今日までずっと、延延とずっとそうだった。

そして、感じたことはもうひとつある。

人間は「宥和的対処方法」を思考しないということだ。

人里に動物が降りてくれば、人間は動揺して排斥思考しか持てなくなる。

「困る困る・・不安不安・・怖い怖い・・迷惑迷惑・・」・・・・・・

動揺して平静を失い、そして怖れが転じて凶暴になる。

どうすれば互いが干渉せずに済むかという思考など途端に吹き飛ぶ。

そこには譲歩とか妥協とかの発想は浮かばずに、「駆逐作戦」しか生まれない。

それが猛獣ではなくて、たとえば鹿や猪や黒熊が相手でも、このような心境となる人が多いのだ。

人間は「垣根無し」で野生動物と対峙すると、自然体ではいられないのだ。

ニュースを見れば分かるはずだ。

そこでコメントするキャスターの言葉を聞けば分かるはずだ。

そこにコメントする世間の人人の意見を読めば分かるはずだ。

そこで解説する「専門家」の言葉を聞けば分かるはずだ。

そこで対応する行政の意向を読めば分かるはずだ。

そこには必ず、「害獣」という決まり文句が添えられている・・・・・・


ましてや、「狼」である。

いくら狼に無知な人でも、それが犬ではないことに直感で気付くだろう。

なにしろ「野性」は、独特の気配を持っているのだ。

そこに見知らぬ大型犬が放れているだけでも人間は緊張する。

もし山の中で大きな犬が放れていれば、多くの人は動転して襲われる錯覚に陥る。

そしてそれは通報され、世間は「野犬狩り」へと突進する。

それが犬であっても、世間の人人はそのような心境となるのである。

それが狼だったら、狼だと直感したら、その人はパニックになる可能性が高いだろう。

もし人里に狼が現われれば、どういう事態になるのか・・・・・・

現われないという確証は無いのである。

現われる可能性もあるのである。

確かに彼らは非常に人間を警戒するし、あえて人間には近寄らない。

彼らは、人間には関わりたくないと思っている。

だが、そこにどんな事情が発生するかも知れない。

中には大胆な狼もいるだろうし、人里に興味を抱く子狼がいるかも知れない。

人里の「犬」に興味を抱いて近づく狼もいるかも知れない。

狼は犬を同族とは思わないが、しかし若い狼などは遊び心に満ちているのだ・・・・・・

そして狼の行動半径は広大なのである。

狼がちょっとその気になれば100km200kmなど朝飯前の距離なのだ。

どこで狼と人間が遭遇するとも限らないのだ。

現代日本では、いくら秘境と呼ばれるエリアでも、近くまで人間が入り込むのだ。

もし遭遇すれば、それはたちまちニュースになり、人間は防衛意識を先鋭化させるだろう。

こういったことを考えてみると、「狼の不幸」が浮かんでくる。

彼らが狭い日本で、人間を警戒しながら息を殺して忍ぶ姿を予感するのだ。

狼が存分に、縦横無尽に生き生きと生活を謳歌できるのなら、話は分かる。

だが果たしてそれは叶えられるのだろうか???


最も重大事は、世間の人人の心境である。

人人が果たしてどれほどに狼を理解してくれるだろうか??

いや、頭で理解できたとしても、実際問題となれば気持ちが反転する可能性も大きいのだ。

だからこれは実に困難な課題だと思うのだ。

プロジェクトの人たちは、これについてどのように考えているのだろうか??

山の動物に対する世間の心境の現実を、もっともっと知るべきだと思うのだが。

野獣を「害獣」と見る人の方が圧倒的に大多数であることを、知るべきだと思うのだが。

それとも、「狼側の犠牲」「人間からの迫害」などを、最初から想定済みなのか??

もし最初から想定済みだとしたなら、それは怖ろしいプロジェクトだ。

もし狼を、生態系秩序回復のための「道具」と見ているのなら、誠に残念である。


プロジェクトチームは、

学者や研究家相手に問題を問う前に、

その前に「世間の感情」について調査すべきだと思う。

そこで世間の感情が、自分たちの思惑とは別次元のものである現実を知るだろう。

世間には、動物嫌いの人が非常に多い。

あるいは動物が好きと言いながら、安心快適生活の絶対権利を主張する人が圧倒的である。

だからもし問題が発生した場合には、手段を選ばぬ冷酷な駆逐作戦が企てられるだろう。

世間の感情が、実際の社会を動かしている。

社会の本当の権力者は、「世間感情:世間総意:世論」なのである。

だから世間の感情を軽視すれば、いずれ深刻な事態が起こる可能性が高い。

それは、狼たちにとっての深刻な事態である。


プロジェクトチームは「狼への理解を!!」と簡単に言うが、

その前に「山の動物たちへの理解」を世間に問うべきだ。

「なぜ山の動物たちの事情を分かってくれないのですか??」と聞くべきだ。

「なぜ山の動物たちが里に降りると害獣と呼ぶのですか??」と聞くべきだ。

それを聞いてみれば、狼への理解を求めることが如何に至難か実感できるはずだ。

※なにしろ、家族同然と称する愛玩動物でさえ、平気で飼養放棄する人が多いのである。

それが今の日本の「動物観」の現実なのである。

<ペット観・動物観・自然観・共生観は、緊密に連関している・・・>


生態系の秩序を回復して健全な自然を取り戻すことは、

山の動物たちにとっての願いではあるけれど、

なにしろ山麓の人里には「人間!!」がいるから、

事態は実に困難な様相を呈しているのである。

すべての人間が「宥和の精神」で山獣たちを見てくれたなら、

そのときには「狼参加による秩序回復」が重大な意義を持つと思う。

だからつまり、「宥和の精神」を知ってもらうことが先決だと思うのだ。

※宥和:相手の事情を鑑み、譲歩や妥協を探り、共存を目指すこと。


■南無華厳 狼山道院■