<2010年8月24日>
だいぶ日が短くなってきた。
朝の4時だとまだ暗い。
ちょっと前までは、もう明るくなる時間だったのに・・・
夜は7時になれば、もう暗くなる。
ちょっと前までは、まだ明るい時間だったのに・・・
だから犬たちの世話も運動も真っ暗い中でやることとなる。
頭に小さなヘッドライトを付け、8時頃になるとそれを点灯する。
しかし運動の時には、できるだけライトを灯さないようにしている。
夜の山の中を、できるだけ自然に歩きたいからだ。
夜の山では、特に耳を澄ます。
いつも澄ませているが、やはり夜は特別だ。
もちろん犬たちも同様だ。
彼らは臭覚も凄いし、夜でも相当に見えるが、しかし耳を澄ませている。
集中力を研ぎ澄ませ、全感覚を起動させ、すべてを聴くのである。
私は、夜の山のこの緊張感が好きだ。
もちろん昼間の山も素晴らしいが、夜の山は特別なのである。
そこでは、全感覚を起動させて「聴く」ことが求められる。
そこではおのずと、「集中」することになる。
だが一点に集中するのではない。すべてに向けて集中する。
一点に集中しながらもすべてに集中し、
すべてに集中しながらも一点に集中できるということ。
極一点に集中しながら同時にすべてに集中するということ。
それが野性の集中力だと感じる。
野性たちは、そういうことが自然体でできるようである。
それは相当に至難の領域だと思うが、
野性たちは野生の中でそれを延延と練磨してきたのだと思う。
なにしろ、現実に命が懸かっているのである。
言葉上の「命懸け」とは訳が違うのである。
それを24時間365日何年も何年も続けるのである。
その修練の歴史が何百年何千年何万年と続いてきたのである。
いや、野生の動物たちだけではない。
犬たちや猫たちだって、未だに充分にその能力を持っている。
だから彼らから学ばない訳にはいかない。彼らは先生なのである。
犬や猫と暮らす人が大変に多いが、
せっかく彼らと暮らすのだから、いろんなことを学ぶべきだと思うのだ。
「飼う・・」「ペット・・」という発想を捨てれば、貴重な学びが無尽にあると思うのだ・・・・
犬たちの世話と運動と給食を終えて、森に座って夜を味わう。
みんなを見渡せる場所に座って、みんなと一緒に辺りの気配を聴く。
かなり近くまで何者かが近づく夜もある。
その時の犬たちの様子を観るのが、とても味わい深い。
猪の子どもが、興味深げに遊びに来ることもある。
親は遠慮して、近くまでは来ない。
夜の闇で姿は見えないが、それが彼らだと分かる。
彼らは、我われのことを知っている。
我われの匂いも、我われの声も、我われの行動も、我われの精神も、知っている。
彼らに限らず、山の動物たちはみんな我われのことを知っている。
ときどき響き渡る私の声も、山のみんなが聴いている。
みんな、この私のことをお見通しなのである。
つまり私は山のみんなから見られている。
私の心の声を、みんなに聴かれている。
もちろん、熊も聴いているだろう。
熊は遠慮しているらしく、今年は姿を現わさない。
しかし離れた場所に気配がする。
夜になれば、昼間よりもそれが濃密に伝わる。
この山の熊は、心が落ち着いているようだ。
彼らの「警告の声」「威嚇の声」を聞いたことがない。
もし熊が威嚇の咆哮をすると、十頭の大型犬が一斉に吠えたくらいの声量と迫力があるという。
熊のその重厚な身体を見れば、なるほど!!と納得できる。
だがこの辺りでは、その声を聞いたことが無いのである。
我われ家族がここに暮らしていても、熊にとっては迷惑ではないようだ。
もしも迷惑ならば、きっと警告しにくるだろう。
4年前の夜に、熊が私の3m先まで来た。
その時は私も驚いたが、熊は目前で停止した。
私はただ右手を前にかざし、胆からの声で「STOP!!!」と号令しただけである。
<別の年にも3mまで迫られたが、同じように制止した・・>
その年は2週間くらい訪問が続き、
遊び場のフェンスの中に置いたドッグフードの入ったポリバケツを持っていかれた。
フェンスを乗り越えて大きなポリバケツを持ち去ってしまったのだ。
翌日、歩いて辺りを探した。
そうしたら100mくらい離れた場所に、それがあった。
そのポリバケツのすぐ横に、可愛らしくちょこんと犬の食器が並んでいた。
おそらく子熊がその食器を咥えて母熊の後を着いていったのだろう。
その光景を想うと、無性に微笑ましくなった。
そしてそこから少し離れた所に、熊の大きなフンがあった。
それはフードを消化する前のフンだったようだ。
中を調べてみたが、全くの植物食だったようだ。
日本黒熊の通常食は植物質なのである。
だからドッグフードは熊の身体には合わない。
熊の身体には非常に不適だし、食べ過ぎれば身体に危険だ。
だからそれ以後は、絶対にフードを置かないようにした。
熊はその後も来訪したが、フードに執着することは無かった。
熊はドッグフードを狙ってくる訳では無かったのである。
もしそれを狙っているのなら、執念深く探し回ったはずなのだ・・・・
その後も毎年、熊の気配を感じたが、もう真近までは来なかった。
熊も我われに対して間合いを取るようになったようだ。
この近くを通る時も、ここを迂回して歩いているようだ。
熊も我われの存在を諒解し、我われも彼らの存在を諒解する。
互いに諒解し、互いに暗黙の間合いを心がける。
暗黙の間合いを心がけ、互いのプライベートを尊重する。
そのような関係が築けたのではないかと感じる。
もちろん犬たちもそれを心得ているようだ。
そうでなければ、熊は必ず警告に訪れるはずなのだ。
熊は自分に対して迫害意識を持つ者に対しては、見事に敏感なのである。
熊は自分に向けられる悪意を、実に鋭くキャッチするのである・・・・・
因みに狼や狼犬や北極犬が存命の頃には、熊の気配は決して近付かなかった。
「狼の一唸りで、熊はそこに三日は近寄らない」・・・
そのような昔話があるようだが、それが事実だと分かる。
熊も圧倒的な力持ちだが、だが狼は格闘のプロ中のプロである。
野性の者同士は、瞬間で相手の力量を読むのである。
まだ日本狼が棲息していた時代には、
狼もわざわざ熊を狙うことは無かったろうし、熊は狼を避けていただろう。
因みに百年前に絶滅した日本狼は小型狼だったと言われるが、
だが少なくともシベリアンハスキー程度かそれ以上の大きさはあっただろう。
そうでなければ生態系的動物相として話の辻褄が合わなくなる。
そしてもちろんその骨格は、犬とは比較にならないほどに頑丈だっただろう。
日本狼の実像を現存の剥製で判断する人はいないだろうが、
狼の体格サイズなど「雌雄・年齢・発育状態・個体差」で2倍3倍も変わるのである。
<同じく絶滅した北海道狼は大陸の北方狼と同種だから、極めて大型だったらしい・・>
深夜の山で、山の命たちを心観する。
山のみんなに、それぞれの生活があり、それぞれの生涯がある。
それぞれの事情があり、それぞれの都合があり、それぞれの決意がある。
それぞれの苦闘があり、それぞれの忍耐があり、
それぞれの喜びがあり、それぞれの悲しみがあり、それぞれの孤独がある。
それぞれの使命があり、それぞれの渾身があり、それぞれの偉大な物語がある。
山界に隠された偉大な命の物語を夜の森で聴くとき、なぜか涙が溢れてくる。
人間にも、事情があり、都合がある。
だが動物たちにも、事情があり、都合がある。
両者が折り合う領域は、果たしてどこにあるのだろうか。
共存・共生と口にするのは容易いが、
彼らと折り合える領域を、果たして見つけることができるのだろうか。
彼らのひとりひとりが大自然を支えてきた。
彼らのひとりひとりに大自然が宿っている。
だから彼らの気持ちを知るべきだと思う。
だから彼らの言い分を聞くべきだと思う。
彼らの事情を知り、都合を知り、意向を知るべきだと思うのだ。
それを知らなければ、折り合いをつけることなどできないはずだ。
■南無華厳 狼山道院■
だいぶ日が短くなってきた。
朝の4時だとまだ暗い。
ちょっと前までは、もう明るくなる時間だったのに・・・
夜は7時になれば、もう暗くなる。
ちょっと前までは、まだ明るい時間だったのに・・・
だから犬たちの世話も運動も真っ暗い中でやることとなる。
頭に小さなヘッドライトを付け、8時頃になるとそれを点灯する。
しかし運動の時には、できるだけライトを灯さないようにしている。
夜の山の中を、できるだけ自然に歩きたいからだ。
夜の山では、特に耳を澄ます。
いつも澄ませているが、やはり夜は特別だ。
もちろん犬たちも同様だ。
彼らは臭覚も凄いし、夜でも相当に見えるが、しかし耳を澄ませている。
集中力を研ぎ澄ませ、全感覚を起動させ、すべてを聴くのである。
私は、夜の山のこの緊張感が好きだ。
もちろん昼間の山も素晴らしいが、夜の山は特別なのである。
そこでは、全感覚を起動させて「聴く」ことが求められる。
そこではおのずと、「集中」することになる。
だが一点に集中するのではない。すべてに向けて集中する。
一点に集中しながらもすべてに集中し、
すべてに集中しながらも一点に集中できるということ。
極一点に集中しながら同時にすべてに集中するということ。
それが野性の集中力だと感じる。
野性たちは、そういうことが自然体でできるようである。
それは相当に至難の領域だと思うが、
野性たちは野生の中でそれを延延と練磨してきたのだと思う。
なにしろ、現実に命が懸かっているのである。
言葉上の「命懸け」とは訳が違うのである。
それを24時間365日何年も何年も続けるのである。
その修練の歴史が何百年何千年何万年と続いてきたのである。
いや、野生の動物たちだけではない。
犬たちや猫たちだって、未だに充分にその能力を持っている。
だから彼らから学ばない訳にはいかない。彼らは先生なのである。
犬や猫と暮らす人が大変に多いが、
せっかく彼らと暮らすのだから、いろんなことを学ぶべきだと思うのだ。
「飼う・・」「ペット・・」という発想を捨てれば、貴重な学びが無尽にあると思うのだ・・・・
犬たちの世話と運動と給食を終えて、森に座って夜を味わう。
みんなを見渡せる場所に座って、みんなと一緒に辺りの気配を聴く。
かなり近くまで何者かが近づく夜もある。
その時の犬たちの様子を観るのが、とても味わい深い。
猪の子どもが、興味深げに遊びに来ることもある。
親は遠慮して、近くまでは来ない。
夜の闇で姿は見えないが、それが彼らだと分かる。
彼らは、我われのことを知っている。
我われの匂いも、我われの声も、我われの行動も、我われの精神も、知っている。
彼らに限らず、山の動物たちはみんな我われのことを知っている。
ときどき響き渡る私の声も、山のみんなが聴いている。
みんな、この私のことをお見通しなのである。
つまり私は山のみんなから見られている。
私の心の声を、みんなに聴かれている。
もちろん、熊も聴いているだろう。
熊は遠慮しているらしく、今年は姿を現わさない。
しかし離れた場所に気配がする。
夜になれば、昼間よりもそれが濃密に伝わる。
この山の熊は、心が落ち着いているようだ。
彼らの「警告の声」「威嚇の声」を聞いたことがない。
もし熊が威嚇の咆哮をすると、十頭の大型犬が一斉に吠えたくらいの声量と迫力があるという。
熊のその重厚な身体を見れば、なるほど!!と納得できる。
だがこの辺りでは、その声を聞いたことが無いのである。
我われ家族がここに暮らしていても、熊にとっては迷惑ではないようだ。
もしも迷惑ならば、きっと警告しにくるだろう。
4年前の夜に、熊が私の3m先まで来た。
その時は私も驚いたが、熊は目前で停止した。
私はただ右手を前にかざし、胆からの声で「STOP!!!」と号令しただけである。
<別の年にも3mまで迫られたが、同じように制止した・・>
その年は2週間くらい訪問が続き、
遊び場のフェンスの中に置いたドッグフードの入ったポリバケツを持っていかれた。
フェンスを乗り越えて大きなポリバケツを持ち去ってしまったのだ。
翌日、歩いて辺りを探した。
そうしたら100mくらい離れた場所に、それがあった。
そのポリバケツのすぐ横に、可愛らしくちょこんと犬の食器が並んでいた。
おそらく子熊がその食器を咥えて母熊の後を着いていったのだろう。
その光景を想うと、無性に微笑ましくなった。
そしてそこから少し離れた所に、熊の大きなフンがあった。
それはフードを消化する前のフンだったようだ。
中を調べてみたが、全くの植物食だったようだ。
日本黒熊の通常食は植物質なのである。
だからドッグフードは熊の身体には合わない。
熊の身体には非常に不適だし、食べ過ぎれば身体に危険だ。
だからそれ以後は、絶対にフードを置かないようにした。
熊はその後も来訪したが、フードに執着することは無かった。
熊はドッグフードを狙ってくる訳では無かったのである。
もしそれを狙っているのなら、執念深く探し回ったはずなのだ・・・・
その後も毎年、熊の気配を感じたが、もう真近までは来なかった。
熊も我われに対して間合いを取るようになったようだ。
この近くを通る時も、ここを迂回して歩いているようだ。
熊も我われの存在を諒解し、我われも彼らの存在を諒解する。
互いに諒解し、互いに暗黙の間合いを心がける。
暗黙の間合いを心がけ、互いのプライベートを尊重する。
そのような関係が築けたのではないかと感じる。
もちろん犬たちもそれを心得ているようだ。
そうでなければ、熊は必ず警告に訪れるはずなのだ。
熊は自分に対して迫害意識を持つ者に対しては、見事に敏感なのである。
熊は自分に向けられる悪意を、実に鋭くキャッチするのである・・・・・
因みに狼や狼犬や北極犬が存命の頃には、熊の気配は決して近付かなかった。
「狼の一唸りで、熊はそこに三日は近寄らない」・・・
そのような昔話があるようだが、それが事実だと分かる。
熊も圧倒的な力持ちだが、だが狼は格闘のプロ中のプロである。
野性の者同士は、瞬間で相手の力量を読むのである。
まだ日本狼が棲息していた時代には、
狼もわざわざ熊を狙うことは無かったろうし、熊は狼を避けていただろう。
因みに百年前に絶滅した日本狼は小型狼だったと言われるが、
だが少なくともシベリアンハスキー程度かそれ以上の大きさはあっただろう。
そうでなければ生態系的動物相として話の辻褄が合わなくなる。
そしてもちろんその骨格は、犬とは比較にならないほどに頑丈だっただろう。
日本狼の実像を現存の剥製で判断する人はいないだろうが、
狼の体格サイズなど「雌雄・年齢・発育状態・個体差」で2倍3倍も変わるのである。
<同じく絶滅した北海道狼は大陸の北方狼と同種だから、極めて大型だったらしい・・>
深夜の山で、山の命たちを心観する。
山のみんなに、それぞれの生活があり、それぞれの生涯がある。
それぞれの事情があり、それぞれの都合があり、それぞれの決意がある。
それぞれの苦闘があり、それぞれの忍耐があり、
それぞれの喜びがあり、それぞれの悲しみがあり、それぞれの孤独がある。
それぞれの使命があり、それぞれの渾身があり、それぞれの偉大な物語がある。
山界に隠された偉大な命の物語を夜の森で聴くとき、なぜか涙が溢れてくる。
人間にも、事情があり、都合がある。
だが動物たちにも、事情があり、都合がある。
両者が折り合う領域は、果たしてどこにあるのだろうか。
共存・共生と口にするのは容易いが、
彼らと折り合える領域を、果たして見つけることができるのだろうか。
彼らのひとりひとりが大自然を支えてきた。
彼らのひとりひとりに大自然が宿っている。
だから彼らの気持ちを知るべきだと思う。
だから彼らの言い分を聞くべきだと思う。
彼らの事情を知り、都合を知り、意向を知るべきだと思うのだ。
それを知らなければ、折り合いをつけることなどできないはずだ。
■南無華厳 狼山道院■