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<2010年8月22日>

写真:1995「オーラン:王嵐」<PolarEskimodog>


私はボス犬に敬意を表してきた。

我が家には代代ボス犬がいたが、私は彼らの立場を尊重した。

ボスにはボスの立場があり、都合があり、面目がある。


ボス犬は大変だ。

なにしろ一家の看板を背負っているのである。

だから彼らの自覚と覚悟は本物だ。

人間社会の中ではその本領を見せないが、内に秘めた覚悟は凄いのだ。

ボス犬の責務は重く、次次と重大な決断に迫られる。

そのプレッシャーは想像を超えて大きいだろう。

だがボス犬は弱音など吐かない。無言で踏ん張る。

だからこそボス犬だ。

そうでなければボスになどなれないのだ。

強いだけではボスになれない。

威張るだけではボスの座にはいられない。

ボスの座にいるには、実にさまざまな条件が求められるのである。

そして刻刻といかなる時にも審判されているのである。

群れの中には目には見えない微妙な均衡が存在し、

ボス犬は常にその均衡の最中に立たされ、その均衡を調律していかねばならない。

それは想像よりもはるかに困難な大仕事なのである。

だから私はボス犬に敬意を表す。

彼らの面目を潰すような真似は極力避けてきた。

それが彼らに対する礼儀であり仁義である。

そうすると彼らは私のその気持ちに気付く。

彼らは無言の中で私に礼を述べている。


因みに、生来的なボスの素質の個体は、赤ちゃんの時から違う。

野性の強い犬ほど、その特徴が顕著に現われる。

その特徴は、本来的にはボスの使命を果たすための重大な個性だと思う。

だが「家庭犬」としては、時として飼主の手に余る場合があるだろう。

その飼主にとっては「バカ犬!!」に映るかも知れない。

なんでこんなに強情なんだ!! なんでこんなに頑固なんだ!! ・・・・・

あるいは飼主はそのように憤慨するかも知れない。

あるいはその気性の烈しさに困惑し、仕舞いには憎悪するかも知れない。

確かに「ボスの器の犬」の主人となるのは難しいが、

それが強力な個体であればあるほど難しさが増していくが、

だがそれは「対話次第」であると実感する。

昔、この自分もその困難に立たされてきたが、それを確かに実感したのだ。


30年前、今は亡き北極エスキモー犬「ライ:雷」の父犬を訪ねた。

その父犬は、群れのボス犬だった。

私はフェンスの中へと通された。

するとたちまち、大きく逞しいエスキモー犬たちに囲まれた。

私はまだ若かったがマスティフやドーベルたちと付き合ってきたから、

強力な大型犬にも充分に慣れていた自負があったのだが、

エスキモー犬たちに囲まれた時には、動けなくなった。

彼らの独特で異質な威圧感に圧倒されてしまったのだ。

彼らはつまり、犬であって犬ではなかったのである。

それまで胆力を練るさまざまな修行を積んできたはずなのだが、

それまでの矜持など吹き飛び、私は野性の悍威に圧倒されてしまったのだ。

そしてそのボス犬は、さらに凄かった。

彼はなんと、向こうで寝そべったままだったのだ。

横になったままで、顔だけこちらを眺めていた。

なんという貫禄!!! ・・・・・

私は脱帽した。まったく感服した。

これが百戦錬磨のボスの姿か!!!

これが生死の境界を耐え抜いた本物のボスの姿か!!!

エスキモー犬は北極の闘士だ。苦闘の歴史を背負っている。

だから彼らのボスとなるのは尋常な試練ではない。まさに命懸けなのである。

そしてそのボス犬は実際に北極現地の酷烈極まる犬橇世界の頭目だったのだ。

やがて、ゆっくりとボス犬は立ち上がり、こちらに歩いてきた。

私を取り囲んでいろんな確認調査をしていた犬たちが一斉に静まる。

そして彼らはボスに道を空けた。

その様子は、まるで狼の群れのように見えた。

いったい何が起こるのか・・・・・

ボス犬は私の真近まで来ると立ち止まり、黙って私を見つめた。

その自然体の姿の中には、しかし途方も無い貫禄が潜んでいた。

私の胸の奥深くに、ボスの姿の実像が刻み込まれた・・・・・


私はボス犬を立てる。

だがもちろん、群れの中で私は別格だ。

私はボス犬を超えた立場にいる。

私は超ボスであり、そしてみんなの「父」なのだ。

ここは人間社会の中だから、私の存在が必要なのである。

我われは野生とは違った特殊な世界に生きているのだ。

その立場の私がそこにいないと、群れの安全は完成しないのである。

だから私もまた自覚と覚悟を持たねばならない。

だから私もまた、その立場にいるための条件を満たさねばならない。

私にもまた、刻刻と審判が下されているのである。


■南無華厳 狼山道院■