<2010年8月5日>
いつも書いてきたが、「程度」は重大だ。
あらゆる場面で、「程度」が問われる。
その「程度」を洞察することによって、行為の理由の一端が分かる。
その「程度」から、行為者の意向の一端を知ることができる。
その「程度」から、そこに於ける真意を垣間見ることができるのだ。
たとえば、犬が人間を咬んだとする。
その事件の分析で肝心なことは、ひとつに「傷のレベル」だ。
咬まれたと言っても、その傷の深さはそれぞれに異なるはずなのだ。
咬まれた人間の「年齢・性別・身体発達状況」なども判断材料となる。
そしてもちろん「その場面の事情・その攻撃の状況」が重大となる。
そして咬んだ犬の、
「月齢年齢・性別・健康状態・身体サイズ・飼育環境・運動状態・・」などが重大だ。
そしてその動物の「普段の性格・普段の精神状態」も重大となる。
そういったそれらすべてを鑑みて、それで初めて「事件分析」が可能となるはずだ。
たとえば同じ犬種でも、雄と雌とでは全てが違ってくる。
そして月齢年齢によって精神面も肉体的力量も別次元に違ってくる。
そして運動状態によっても力量は比較にならないほどに違ってくる。
そしてその「攻撃意識のレベル」によって、相手の傷の深さが違ってくる。
それは「抗議」だったのか??
それは「理不尽に対する、やむなき抗議」だったのか??
あるいはそれは「警告」が目的だったのか??
あるいは「防衛目的の攻撃」だったのか??
あるいは「攻撃目的の攻撃」だったのか??
あるいは「精神失調からの暴発攻撃」だったのか??
そういった「理由の違い」によって、咬傷レベルも相当に異なるはずなのだ。
あるいは、「つい、咬んでしまった・・・・」という場合もある。
興奮して我を忘れて咬んでしまう場合もある。
怖いがゆえに、思わず咬んでしまう場合もある。
中には「咄嗟の時に冷静さを保てない犬・・」もいるのだ。
※そのような精神傾向の犬の場合には、独特の修養プログラムが必要だ。
人間の皮膚は弱いから、咬まれれば「怪我」となってしまう。
同程度の体格の犬同士なら耐えられる咬撃でも、人間は耐えられない。
強力な犬ならば、警告レベルで咬んだだけで、腕に簡単に牙の穴が空く。
多くの人は、それに対してショックを受けてしまうだろう。
「咬まれた!! 攻撃された!!」と動転してしまうだろう。
だが、もしその強力犬が本気だったなら、穴が空いたくらいでは済まない。
もし本気を出されてしまったら、その腕は機能を失うほどに破壊されるだろう。
もし本気で頭を振られてしまったら、その腕は終わりだ・・・・・
だから「咬まれた」といっても、それは実に程度が違ってくるのである。
犬は、元来は狩猟獣である。
それを使役しようとしてきた。
あるいはペットにしようとしてきた。
狩猟獣であることを承知で迎え入れたのだ。
それならば、それ相応の意識と覚悟で飼うのが本来の道理だと思う。
もし狩猟獣特有の特徴を不都合とするならば、家畜化の目論みは誤りだったと思うのだ。
人間が犬に求める要求には、いつも大きな矛盾が潜んでいる。
その矛盾に対して人間自身は気付かずにいる。
その要求を、いつも「当たり前」のことだと思っている。
当たり前だと思っているから、アクシデントの際に「動揺と憎悪」を生んでしまう。
犬が狩猟獣だったと認識していれば、いろんなことが「想定範囲内」になる。
いろんなことを予測できるし、いろんなことを未然に防げる。
だがそれを認識できないと、わずかなアクシデントにも対応できなくなるだろう。
だから犬のその部分を理解できないならば、犬をペットにしない方が無難だと思う。
その部分を否定するということは、犬の運動能力や感覚機能をも否定することになる。
犬に能力を求めるならば、まず犬本来の部分を深く認識すべきだと思う。
■南無華厳 狼山道院■
いつも書いてきたが、「程度」は重大だ。
あらゆる場面で、「程度」が問われる。
その「程度」を洞察することによって、行為の理由の一端が分かる。
その「程度」から、行為者の意向の一端を知ることができる。
その「程度」から、そこに於ける真意を垣間見ることができるのだ。
たとえば、犬が人間を咬んだとする。
その事件の分析で肝心なことは、ひとつに「傷のレベル」だ。
咬まれたと言っても、その傷の深さはそれぞれに異なるはずなのだ。
咬まれた人間の「年齢・性別・身体発達状況」なども判断材料となる。
そしてもちろん「その場面の事情・その攻撃の状況」が重大となる。
そして咬んだ犬の、
「月齢年齢・性別・健康状態・身体サイズ・飼育環境・運動状態・・」などが重大だ。
そしてその動物の「普段の性格・普段の精神状態」も重大となる。
そういったそれらすべてを鑑みて、それで初めて「事件分析」が可能となるはずだ。
たとえば同じ犬種でも、雄と雌とでは全てが違ってくる。
そして月齢年齢によって精神面も肉体的力量も別次元に違ってくる。
そして運動状態によっても力量は比較にならないほどに違ってくる。
そしてその「攻撃意識のレベル」によって、相手の傷の深さが違ってくる。
それは「抗議」だったのか??
それは「理不尽に対する、やむなき抗議」だったのか??
あるいはそれは「警告」が目的だったのか??
あるいは「防衛目的の攻撃」だったのか??
あるいは「攻撃目的の攻撃」だったのか??
あるいは「精神失調からの暴発攻撃」だったのか??
そういった「理由の違い」によって、咬傷レベルも相当に異なるはずなのだ。
あるいは、「つい、咬んでしまった・・・・」という場合もある。
興奮して我を忘れて咬んでしまう場合もある。
怖いがゆえに、思わず咬んでしまう場合もある。
中には「咄嗟の時に冷静さを保てない犬・・」もいるのだ。
※そのような精神傾向の犬の場合には、独特の修養プログラムが必要だ。
人間の皮膚は弱いから、咬まれれば「怪我」となってしまう。
同程度の体格の犬同士なら耐えられる咬撃でも、人間は耐えられない。
強力な犬ならば、警告レベルで咬んだだけで、腕に簡単に牙の穴が空く。
多くの人は、それに対してショックを受けてしまうだろう。
「咬まれた!! 攻撃された!!」と動転してしまうだろう。
だが、もしその強力犬が本気だったなら、穴が空いたくらいでは済まない。
もし本気を出されてしまったら、その腕は機能を失うほどに破壊されるだろう。
もし本気で頭を振られてしまったら、その腕は終わりだ・・・・・
だから「咬まれた」といっても、それは実に程度が違ってくるのである。
犬は、元来は狩猟獣である。
それを使役しようとしてきた。
あるいはペットにしようとしてきた。
狩猟獣であることを承知で迎え入れたのだ。
それならば、それ相応の意識と覚悟で飼うのが本来の道理だと思う。
もし狩猟獣特有の特徴を不都合とするならば、家畜化の目論みは誤りだったと思うのだ。
人間が犬に求める要求には、いつも大きな矛盾が潜んでいる。
その矛盾に対して人間自身は気付かずにいる。
その要求を、いつも「当たり前」のことだと思っている。
当たり前だと思っているから、アクシデントの際に「動揺と憎悪」を生んでしまう。
犬が狩猟獣だったと認識していれば、いろんなことが「想定範囲内」になる。
いろんなことを予測できるし、いろんなことを未然に防げる。
だがそれを認識できないと、わずかなアクシデントにも対応できなくなるだろう。
だから犬のその部分を理解できないならば、犬をペットにしない方が無難だと思う。
その部分を否定するということは、犬の運動能力や感覚機能をも否定することになる。
犬に能力を求めるならば、まず犬本来の部分を深く認識すべきだと思う。
■南無華厳 狼山道院■