<2010年8月2日>
動物と暮らすとき、
最も重大事は、彼らの「心境」を知ることだ。
彼らの心境を知れば、いろんな問題が解決する。
たとえば「犬」といっても、さまざまな犬種がいる。
さまざまな個性があって、さまざまな「状態」がある。
それは余りにも「さまざま」だから、絶対に「一概」には語れない。
それを「十把一絡げ:じっぱひとからげ」にしてしまうと、
そこに大きな誤解が生まれ、解決からは限りなく遠ざかってしまう。
その犬の個性、その犬の傾向性、
その時の状況、その時の状態、その時の立場、その時の事情、
そういったさまざまな要因によって「行動」が表現される。
そういったさまざまな要因が、その時の心境となり、行動を生み出す。
だから絶対に、一概には語れないのである。
彼らの行動の理由は言葉で説明が困難なほど奥深い。
だから本当は「犬と暮らす」ということは大変なことだ。
彼らは人間とは本能や習性が異なる。
もちろん価値観も異なるし、だいいち共通の言語を持たない。
そして「表現」も大いに異なるのである。
だから彼らを理解するということは、実は大変なことなのだ。
「しつけ方法」の指南本を読むのも時には大事だろうが、
それはあくまでも「参考」に過ぎないことを肝に銘じておくべきだ。
最も重大事は、彼らの心境を知ることなのだ。
そしてその時その時の心境を、次次と感知していくのである。
「心境」こそが、すべてを物語っているのである。
たとえばその時の「体調」も、心境によって知ることができるのだ。
彼らの心境は、彼らの身体の調子についても教えてくれるのである。
もし犬の心境を知ることができれば、
ほかの動物たちの心境も同様に分かるようになるだろう。
たとえ種が異なろうとも「心境を知るための核心」は同じなのだ。
心境は、「気配」となって表現される。
その気配を察知し、その気配を判読することが重大だ。
気配とは、「目に見える領域と目に見えない領域」の両方から成り立っている。
その両方を、瞬間瞬間に読み取っていくのである。
だからこれは、真剣勝負である。
いかに穏やかに、いかに大らかに、いかにのんびりとした時間の中でも、
それとは全く別の意識感覚として、それとは別次元の話として、常に真剣勝負が続くのである。
それは主観に左右され易いし正確な判読など至難だが、
それでもそれを「目指す」ことに大きな意義があると思う。
それを目指し続ければ、それはどんどん鋭くなっていくし、深い判読に近づいていく。
だが目指さなければ、いつまでたってもそれが不可能のままに終わるのだ。
「そんなこと、やってらんない!!」と言われるかも知れないが、
たとえば「野性界」では、それが普通に行われているのである。
それを普通に常識として実践しているのである。
人間が「怠慢すぎる」だけなのだ。
人間がそれを疎かにしているだけなのだ。
世間では「飼育論」が盛んに議論されているが、
そこでは活発に理論が展開されているが、
それももちろん大事だと思うが、
一番肝心の「心境を知る」ことに対する視座が欠けていると感じてならない。
なぜそこに視座が向かないのか不思議でならない・・・・・
※気配を察知していくには、相当なエネルギーを要する。
気配を察知し心境を読んでいくと相当に精神エネルギーを使うこととなる。
つまりかなり疲れる場合もあるのだが、それが精神活動なのである。
肉体と同様に、それは精神の運動である。
運動不足は「衰退」をもたらし、やがて大きな不調が訪れる。
だから疲れるけれども、それは精神にとって非常に有意義なのだ。
このブログでは、たとえば「野性禅」についても書いてきた。
「動物の尊厳」をテーマとしているのに、なぜ「禅」に触れてきたのか・・・・
動物と対峙するには、己の心境の状態が、決定的な条件となる。
そして己の心境次第で、対峙の内容が劇的に変わってしまう。
相手の真意を知るには、まず己の心境を見つめなければならない。
己の心境を見つめ、己の心境を沈静し、そこから対話が始まるのである。
それが対話と成るか成らないかは、すべて己の心境次第なのである。
それが対話と成るか「思い込み」に終わるか、己次第である。
それが対話と成るか「一方通行の身勝手な憶測」に終わるか、己次第である。
あるいは過剰な擬人化に終わってしまうのか・・・それも己次第である。
つまりこれは禅的境地の話となる。
だからこそ、自分が実体験してきた華厳や野性禅の話を書いてきた。
その手の話を警戒して身構える人が多いことは承知だが、それでも書いてきた。
動物との対話とは、つまりまったく「精神世界」の領域である。
その領域を避けていたら対話の真相を語れないのである。
だが多くの人は、そこを避けて通ろうとする。
目に見えない領域の問題なのに、目に見える領域でしか話そうとしない・・・・・
なにをそんなに警戒するのか?? 私にはそれが不思議でならない。
そんなものを怖れていたら、動物との対話なんてできやしない。
動物たちはみんな、その領域のことを知っているというのに!!
彼らはそれを当然のこととして受け止め、その領域で生きているというのに!!
もし動物たちと対話しようと思うのなら、まずはこのことを認識する必要がある・・・・・
■南無華厳 狼山道院■
動物と暮らすとき、
最も重大事は、彼らの「心境」を知ることだ。
彼らの心境を知れば、いろんな問題が解決する。
たとえば「犬」といっても、さまざまな犬種がいる。
さまざまな個性があって、さまざまな「状態」がある。
それは余りにも「さまざま」だから、絶対に「一概」には語れない。
それを「十把一絡げ:じっぱひとからげ」にしてしまうと、
そこに大きな誤解が生まれ、解決からは限りなく遠ざかってしまう。
その犬の個性、その犬の傾向性、
その時の状況、その時の状態、その時の立場、その時の事情、
そういったさまざまな要因によって「行動」が表現される。
そういったさまざまな要因が、その時の心境となり、行動を生み出す。
だから絶対に、一概には語れないのである。
彼らの行動の理由は言葉で説明が困難なほど奥深い。
だから本当は「犬と暮らす」ということは大変なことだ。
彼らは人間とは本能や習性が異なる。
もちろん価値観も異なるし、だいいち共通の言語を持たない。
そして「表現」も大いに異なるのである。
だから彼らを理解するということは、実は大変なことなのだ。
「しつけ方法」の指南本を読むのも時には大事だろうが、
それはあくまでも「参考」に過ぎないことを肝に銘じておくべきだ。
最も重大事は、彼らの心境を知ることなのだ。
そしてその時その時の心境を、次次と感知していくのである。
「心境」こそが、すべてを物語っているのである。
たとえばその時の「体調」も、心境によって知ることができるのだ。
彼らの心境は、彼らの身体の調子についても教えてくれるのである。
もし犬の心境を知ることができれば、
ほかの動物たちの心境も同様に分かるようになるだろう。
たとえ種が異なろうとも「心境を知るための核心」は同じなのだ。
心境は、「気配」となって表現される。
その気配を察知し、その気配を判読することが重大だ。
気配とは、「目に見える領域と目に見えない領域」の両方から成り立っている。
その両方を、瞬間瞬間に読み取っていくのである。
だからこれは、真剣勝負である。
いかに穏やかに、いかに大らかに、いかにのんびりとした時間の中でも、
それとは全く別の意識感覚として、それとは別次元の話として、常に真剣勝負が続くのである。
それは主観に左右され易いし正確な判読など至難だが、
それでもそれを「目指す」ことに大きな意義があると思う。
それを目指し続ければ、それはどんどん鋭くなっていくし、深い判読に近づいていく。
だが目指さなければ、いつまでたってもそれが不可能のままに終わるのだ。
「そんなこと、やってらんない!!」と言われるかも知れないが、
たとえば「野性界」では、それが普通に行われているのである。
それを普通に常識として実践しているのである。
人間が「怠慢すぎる」だけなのだ。
人間がそれを疎かにしているだけなのだ。
世間では「飼育論」が盛んに議論されているが、
そこでは活発に理論が展開されているが、
それももちろん大事だと思うが、
一番肝心の「心境を知る」ことに対する視座が欠けていると感じてならない。
なぜそこに視座が向かないのか不思議でならない・・・・・
※気配を察知していくには、相当なエネルギーを要する。
気配を察知し心境を読んでいくと相当に精神エネルギーを使うこととなる。
つまりかなり疲れる場合もあるのだが、それが精神活動なのである。
肉体と同様に、それは精神の運動である。
運動不足は「衰退」をもたらし、やがて大きな不調が訪れる。
だから疲れるけれども、それは精神にとって非常に有意義なのだ。
このブログでは、たとえば「野性禅」についても書いてきた。
「動物の尊厳」をテーマとしているのに、なぜ「禅」に触れてきたのか・・・・
動物と対峙するには、己の心境の状態が、決定的な条件となる。
そして己の心境次第で、対峙の内容が劇的に変わってしまう。
相手の真意を知るには、まず己の心境を見つめなければならない。
己の心境を見つめ、己の心境を沈静し、そこから対話が始まるのである。
それが対話と成るか成らないかは、すべて己の心境次第なのである。
それが対話と成るか「思い込み」に終わるか、己次第である。
それが対話と成るか「一方通行の身勝手な憶測」に終わるか、己次第である。
あるいは過剰な擬人化に終わってしまうのか・・・それも己次第である。
つまりこれは禅的境地の話となる。
だからこそ、自分が実体験してきた華厳や野性禅の話を書いてきた。
その手の話を警戒して身構える人が多いことは承知だが、それでも書いてきた。
動物との対話とは、つまりまったく「精神世界」の領域である。
その領域を避けていたら対話の真相を語れないのである。
だが多くの人は、そこを避けて通ろうとする。
目に見えない領域の問題なのに、目に見える領域でしか話そうとしない・・・・・
なにをそんなに警戒するのか?? 私にはそれが不思議でならない。
そんなものを怖れていたら、動物との対話なんてできやしない。
動物たちはみんな、その領域のことを知っているというのに!!
彼らはそれを当然のこととして受け止め、その領域で生きているというのに!!
もし動物たちと対話しようと思うのなら、まずはこのことを認識する必要がある・・・・・
■南無華厳 狼山道院■