<2010年7月24日>
前記事で華厳仏教「一即一切・・」について極極簡単に触れた。
本来ならそれに触れるには膨大な紙幅を要すのだが、
そうなれば誰も読んではくれないだろうから、あっさりと書いた。
それはつまり「一滴の雫のなかに大宇宙が映り込んでいる」というものだ。
たとえばそれは「一頭の狼のなかに大自然の全容が宿っている」というものだ。
あるいはそれは「大宇宙に一滴の雫の痕跡が永遠に刻み込まれている」というものだ。
あるいはそれは「大自然の歴史に一頭の狼の生涯が永遠に刻み込まれている」というものだ。
あなたもそうであり、私もそうであり、すべての者がそうである。
すべての者が「天上天下唯我独尊」であり、その唯一無二の個性が全宇宙に刻まれている。
そんなバカな!!と思われても、それが実相であり真相である。
世界は刻刻とそのように展開してきたし、そのように展開していく。
地球の果ての砂漠のなかの一匹の孤独なサソリの生涯が、永遠に刻まれているのである。
たとえば、すべての思念もそうである。
たとえば、すべての思想や哲学や宗教もそうである。
すべてが、目に見えない部分で映発し合っているのである。
華厳はだから、宗教特有の排他性を持たない。
ただ指し示すだけである。羅針盤となるだけである。
華厳は、さまざまな宗門で参考にされ、大いなるヒントを与えてきたが、
だがいつも大らかな大度量でその宗門の発展を見つめてきた。
自分は裏舞台の片隅に立ち続けてきたのである。
※「五時教判」という教相判釈があるが、これは天台大師が記したものである。
日本では非常に多くの人たちがこの五時教判だけを参考にして経典の立場を分析しているが、
他の高僧たちが書いた「教相判釈」もいろいろとあるのである。
世の中には経典の権威に囚われる人が多いようだが、
経典の位置付けをしたいのなら、いろんな教判を読むべきだろう。
華厳経「ガンダビューハ」には求道の旅が描かれているが、
そこでは実にさまざまな説法者が登場する。
仏教以外の修行者や仙人、労働者や商人や隷民も説法する。
女性も多く登場し、娼婦も覚りを説法する。
求道者は、そのすべての説法者に対して敬意と感謝を捧げている。
その求道の旅の物語は、当時の人にとっては仰天ものだっただろう。
仏教成立期の当時の世相を考えれば、これはまさに異端経典だっただろう。
当時の階級差別や男女差別は、想像できないほどに徹底されていたはずなのだ。
その意味でも華厳経典は革新的だった。
そこではあらゆる固定観念を打破した展開が繰り広げられるのである。
いかなる者にも、その者としての懸命が隠されている。
そこにはその者だけが知り得た深秘が隠されている。
そこにまず、リスペクトである。
偏見の前に、対立意識の前に、その者の情熱に注目してみる。
なぜそこまで情熱を賭けるのか。なぜそこまで本気なのか。
禅定の中で、その者の境地に越境すれば、そこで思いがけない発見をするだろう。
「対立」となれば何も見えなくなるが、
対立の意識を捨て去り、身構えずに自然体で洞察すれば、互いに新たな道が開ける。
そこで互いに思いがけない真相を知り、互いに進化するのである。
華厳は、大度量の重大さを教えてくれる。
相手を批判する前に、深く見つめることを教えてくれる。
たとえば宗教を信仰していたとしても、
他宗を意識し、批判に情熱を傾けるようになってしまったら終わりだ。
身構えて批判意識で見た瞬間に、真相を見逃すこととなるからだ。
そこですでに、がんじがらめに偏見に縛られているからだ。
そこですでに、仏教の本義から遠く離れてしまっているからだ。
仏教の本領は、どこまでも「自由自在」だというのに・・・・・
なぜ批判の目で見てしまうかと言えば、そこに対立意識があるからだ。
その対立意識は、「空観」とは真逆に位置するというのに・・・・・
華厳はそして、
自分の認識できない領域を頭から否定することの愚かさを教えてくれる。
人間が認識できる領域など、あまりにも限られた狭い範囲でしかないというのに。
この世は、人間からすれば「理解不能・不可思議」と呼べる領域が圧倒的だというのに。
人間は、ごくごく一部分しか見ずに、ごくごく一部分しか知らずにいるというのに。
だいたい、なぜ生命が存在しているのか??
いったい、生命が存在する理由はなんなのか??
あるいは「意識」とは、どこから発生したのか??
生物が機能を発動するための「意識」とは、いったいどこから来たのか??
パソコンの「スイッチ」を押す人間が存在するからパソコンは「起動」する。
「自動起動」を設定するにしても、最初にそれを設定する人間が必要となる。
それを考えれば、「意識」の存在が大前提であることが分かる。
自分に置き換えてみれば分かるはずだが、
「意識の原初」が人工脳器官で発生させることなどできないことが、
たとえばコンピュータに自力で「意識」を発生させることなどできないことが、
そこに元意識が無ければ意識として起動しないことが分かるはずだ。
つまり意識とは、器官とは別次元の存在であることが分かるはずだ。
つまり、生命の存在自体が摩訶不思議なのではないのか・・・・・
人は生命の存在を「当たり前のこと」として、それを前提として思考するが・・・・・
それを前提として「辻褄あわせ」の理論造りに励んできたとしか思えないのだが・・・・・
そういったことを深く考えてみれば、この世はまったく不思議だらけなのである。
不思議だらけなのに、人間は頑としてそれを認めない。
あるいは不思議に対してさえも、対立意識を持ってしまうのか??
■南無華厳 狼山道院■
前記事で華厳仏教「一即一切・・」について極極簡単に触れた。
本来ならそれに触れるには膨大な紙幅を要すのだが、
そうなれば誰も読んではくれないだろうから、あっさりと書いた。
それはつまり「一滴の雫のなかに大宇宙が映り込んでいる」というものだ。
たとえばそれは「一頭の狼のなかに大自然の全容が宿っている」というものだ。
あるいはそれは「大宇宙に一滴の雫の痕跡が永遠に刻み込まれている」というものだ。
あるいはそれは「大自然の歴史に一頭の狼の生涯が永遠に刻み込まれている」というものだ。
あなたもそうであり、私もそうであり、すべての者がそうである。
すべての者が「天上天下唯我独尊」であり、その唯一無二の個性が全宇宙に刻まれている。
そんなバカな!!と思われても、それが実相であり真相である。
世界は刻刻とそのように展開してきたし、そのように展開していく。
地球の果ての砂漠のなかの一匹の孤独なサソリの生涯が、永遠に刻まれているのである。
たとえば、すべての思念もそうである。
たとえば、すべての思想や哲学や宗教もそうである。
すべてが、目に見えない部分で映発し合っているのである。
華厳はだから、宗教特有の排他性を持たない。
ただ指し示すだけである。羅針盤となるだけである。
華厳は、さまざまな宗門で参考にされ、大いなるヒントを与えてきたが、
だがいつも大らかな大度量でその宗門の発展を見つめてきた。
自分は裏舞台の片隅に立ち続けてきたのである。
※「五時教判」という教相判釈があるが、これは天台大師が記したものである。
日本では非常に多くの人たちがこの五時教判だけを参考にして経典の立場を分析しているが、
他の高僧たちが書いた「教相判釈」もいろいろとあるのである。
世の中には経典の権威に囚われる人が多いようだが、
経典の位置付けをしたいのなら、いろんな教判を読むべきだろう。
華厳経「ガンダビューハ」には求道の旅が描かれているが、
そこでは実にさまざまな説法者が登場する。
仏教以外の修行者や仙人、労働者や商人や隷民も説法する。
女性も多く登場し、娼婦も覚りを説法する。
求道者は、そのすべての説法者に対して敬意と感謝を捧げている。
その求道の旅の物語は、当時の人にとっては仰天ものだっただろう。
仏教成立期の当時の世相を考えれば、これはまさに異端経典だっただろう。
当時の階級差別や男女差別は、想像できないほどに徹底されていたはずなのだ。
その意味でも華厳経典は革新的だった。
そこではあらゆる固定観念を打破した展開が繰り広げられるのである。
いかなる者にも、その者としての懸命が隠されている。
そこにはその者だけが知り得た深秘が隠されている。
そこにまず、リスペクトである。
偏見の前に、対立意識の前に、その者の情熱に注目してみる。
なぜそこまで情熱を賭けるのか。なぜそこまで本気なのか。
禅定の中で、その者の境地に越境すれば、そこで思いがけない発見をするだろう。
「対立」となれば何も見えなくなるが、
対立の意識を捨て去り、身構えずに自然体で洞察すれば、互いに新たな道が開ける。
そこで互いに思いがけない真相を知り、互いに進化するのである。
華厳は、大度量の重大さを教えてくれる。
相手を批判する前に、深く見つめることを教えてくれる。
たとえば宗教を信仰していたとしても、
他宗を意識し、批判に情熱を傾けるようになってしまったら終わりだ。
身構えて批判意識で見た瞬間に、真相を見逃すこととなるからだ。
そこですでに、がんじがらめに偏見に縛られているからだ。
そこですでに、仏教の本義から遠く離れてしまっているからだ。
仏教の本領は、どこまでも「自由自在」だというのに・・・・・
なぜ批判の目で見てしまうかと言えば、そこに対立意識があるからだ。
その対立意識は、「空観」とは真逆に位置するというのに・・・・・
華厳はそして、
自分の認識できない領域を頭から否定することの愚かさを教えてくれる。
人間が認識できる領域など、あまりにも限られた狭い範囲でしかないというのに。
この世は、人間からすれば「理解不能・不可思議」と呼べる領域が圧倒的だというのに。
人間は、ごくごく一部分しか見ずに、ごくごく一部分しか知らずにいるというのに。
だいたい、なぜ生命が存在しているのか??
いったい、生命が存在する理由はなんなのか??
あるいは「意識」とは、どこから発生したのか??
生物が機能を発動するための「意識」とは、いったいどこから来たのか??
パソコンの「スイッチ」を押す人間が存在するからパソコンは「起動」する。
「自動起動」を設定するにしても、最初にそれを設定する人間が必要となる。
それを考えれば、「意識」の存在が大前提であることが分かる。
自分に置き換えてみれば分かるはずだが、
「意識の原初」が人工脳器官で発生させることなどできないことが、
たとえばコンピュータに自力で「意識」を発生させることなどできないことが、
そこに元意識が無ければ意識として起動しないことが分かるはずだ。
つまり意識とは、器官とは別次元の存在であることが分かるはずだ。
つまり、生命の存在自体が摩訶不思議なのではないのか・・・・・
人は生命の存在を「当たり前のこと」として、それを前提として思考するが・・・・・
それを前提として「辻褄あわせ」の理論造りに励んできたとしか思えないのだが・・・・・
そういったことを深く考えてみれば、この世はまったく不思議だらけなのである。
不思議だらけなのに、人間は頑としてそれを認めない。
あるいは不思議に対してさえも、対立意識を持ってしまうのか??
■南無華厳 狼山道院■