<2010年7月21日>
華厳仏教に「芥子、須弥を入れる・・」という言葉がある。
この芥子とは「芥子粒・・極微」を指し、
須弥とは仏典に登場する途轍もなく大きな「須弥山」のことだ。
これはつまり華厳経の「一即一切・一切即一」のことだが、
この一即一切・・とは、空間と時間の両方に於いて言っているのである。
今この瞬間の中に、全ての過去と全ての未来が凝縮されている。
一瞬一瞬に、「永遠」が刻まれるのである。
一瞬一瞬に永遠が刻まれ、次次と永遠が刻まれ、それが無限に展開する。
まったく、途轍もない世界だ。
思考停止になるほどに想像を絶したスケールだ。
だがこの超絶の世界が、それぞれの己の中に潜んでいる。
途方も無い「無限」が、それぞれの瞬間の中に隠されている。
「華厳禅」とは、このスーパースケールの世界観を「実感!!」することだ。
どれほど「頭」でそれを勉強しても、多少なりとも「実感」できなければ先へは進めない。
仏教とは結局、「実感」しなければ何も分からずに終わってしまうのだ。
実感しなければ、今生でそれを活かして生きることなどできないのだ。
たとえば「無我・無自性・法界縁起・性起・・」は、つまり「空:kuu」を言っているが、
その「空」とはもちろんただの「無」ではないのだが、
それは結局この「スーパースケール」を言っているのだが、
それを実感できないと虚無感に彩られた傍観者に終わってしまう。
それを実感できないと仏教本来のダイナミズムを知らずに終わる。
ただ何事も無く平穏無事に淡淡と過ごしていけることが本願のように錯覚してしまう。
「生きる」こととは、本来「波乱万丈」そのものなのに。
一瞬一瞬に、思議不可能な事態が待ち受けているというのに。
そのめまぐるしく変転する毎日をどうやって生き切るかが醍醐味なのに。
全ての過去の結晶が「今」であり、次次の「今」が次次と未来を創っていく。
だから、その今の中に、その時に於ける全てが見える。
占い師に聞く必要は無い。霊能者に聞く必要は無い。
自分自身でそれを見ることができるはずなのだ。
「今」が未来を創っていくが、その今とは、つまり「心」だ。
何が未来を決定していくかと言うと、つまり「心」なのだ。
その今のその心が、全てを導いていく。
心と言っても分かりにくいかも知れないので、「心境」とする。
その瞬間のその心境が、あらゆることを生み出していくのである。
「心境」もまた次次と変化する。
次次と変化する心境によって「境地」も次次と変化する。
世界には無数の命が存在し、無数の心境が存在し、無数の境地が存在する。
その無数の境地が無限に交錯して「世界の境地」が一瞬一瞬に生まれる。
「世界の境地」もまた瞬間瞬間に変化していくのである。
それぞれの個の境地が世界の境地に反映し、
世界の境地が、そのままそれぞれの個の境地に反映する。
個と個が反映し合い、個と世界が反映し合い、無限に反映し合い、無限に展開を続ける。
だから今の中にその時の全てを見たとしても、次の瞬間には別の姿へと変わっている。
一瞬一瞬刹那刹那に、全てが新たな姿に生まれ変わっていくのである。
我われは、これほどまでに凄まじいフラッシュスピードの無限展開の最中にいるのである。
それを知るか知らないかによって、あらゆることが変わってくる。
それを知り、それを厳然と受け止めれば、己の内なる声が聴こえるようになる。
己の内なる声を聴けば、己の可能性に挑み、己の個性を発揮することの重大さに気付く。
そしてその声が、どこから発せられているかが分かる。
その声が、何か慈悲的な母体から響いていることが分かる。
何か慈悲的な母体から響いてくることを実感すれば、すべての行動に思慮が働くようになる。
可能性に挑むときにも、個性を発揮するときにも、そこには思慮が働く。
その慈悲的な響きを実感すれば、思慮無しには行動できなくなる。
その慈悲的な響きとは慈悲的情緒を生み、心に湧きあがる。
その慈悲的情緒が思慮となって行動を制御するのである。
慈悲的情緒は、大慈悲へと昇華する可能性を秘めている。
つまり慈悲的情緒こそが大慈悲の幼子である。
大慈悲の幼子は、自分以外の全ての命もまたそうであることを直感する。
自分以外の全ての命が自分と同様であることを直感し、そこに「尊厳」を認める。
尊厳を認めるというよりも、尊厳を直感するのである。
全ての命が「・・天上天下唯我独尊・・」であることを直感するのである。
全ての命が「全宇宙で我は唯一の個性であるからこそ無限に尊い」のである。
だからつまり全ての命の尊厳は同等であると直感するのである。
それを直感すれば、おのずと「強欲・妄執」から離れることとなる。
それを直感すれば、自分自身でそこから離れることができるようになるのである。
「全ての命の尊厳が同等????」
「そんなこと考えてたら、生きてられねえよ!!」と思うかも知れないが、
「そんなこと非現実的な戯言だろうが!!」と感じるかも知れないが、
この世の仕組みの真相はそうなのであるから、知っておくべきなのである。
だが真相はそうなのだが、生き方はそれぞれの勝手だ。
生き方はそれぞれの勝手だが、その生き方が未来を決定していく。
ただそれだけのことだ。
荒廃し切った殺伐の未来を望むなら、真相を無視して生きればいいだけなのだ。
次次と全てが変転する流れの中でも、その本源自体は永遠に変わらない。
そもそもその本源が全てを生んだ生みの親なのであり、
もしその本源が無くなれば同時に全ても消滅するのだ。
その本源とは「大悲:思議を超えた無限の愛」であり、究極の空である・・・・・
たとえ過酷な状況の中でも、己はいかに慈悲的情緒を捨てずに生きられるか??
それが己への挑戦であり命の修行であり、魂の進化である。
はるか古代、華厳仏教は西方世界にも影響を及ぼした可能性があるらしい。
古代華厳仏教は中央アジア:コータンで研鑽されたが、それが西方にも伝わったようだ。
そしてそれは「アレクサンドリア」辺りにも伝えられたようである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪新プラトン主義の「プロティノス」(205~270)はこう語っている≫
「すべての存在は、その幅と深みに於いて相互に明瞭に知られる。
・・・光は光を貫いて走る。
しかもそのおのおのは、自らの内に全てを含み、同時に相互の中に全てを見る。
したがって、いたるところに全てがあり、
全てが全てであり、それぞれが全てであり、無限の栄光である。
そのおのおのが偉大であり、その小さき者も偉大であり、
あそこにいる太陽は星辰の全てであり、また星辰のおのおのは星辰の全てであり太陽でもある。
なんらかの存在様式がそのおのおのを支配しているが、
全ては、他のおのおのに映像されているのである・・・・・」
<プロティノスは禅定を重視し、それを実践したようだ・・>
■南無華厳 狼山道院■
華厳仏教に「芥子、須弥を入れる・・」という言葉がある。
この芥子とは「芥子粒・・極微」を指し、
須弥とは仏典に登場する途轍もなく大きな「須弥山」のことだ。
これはつまり華厳経の「一即一切・一切即一」のことだが、
この一即一切・・とは、空間と時間の両方に於いて言っているのである。
今この瞬間の中に、全ての過去と全ての未来が凝縮されている。
一瞬一瞬に、「永遠」が刻まれるのである。
一瞬一瞬に永遠が刻まれ、次次と永遠が刻まれ、それが無限に展開する。
まったく、途轍もない世界だ。
思考停止になるほどに想像を絶したスケールだ。
だがこの超絶の世界が、それぞれの己の中に潜んでいる。
途方も無い「無限」が、それぞれの瞬間の中に隠されている。
「華厳禅」とは、このスーパースケールの世界観を「実感!!」することだ。
どれほど「頭」でそれを勉強しても、多少なりとも「実感」できなければ先へは進めない。
仏教とは結局、「実感」しなければ何も分からずに終わってしまうのだ。
実感しなければ、今生でそれを活かして生きることなどできないのだ。
たとえば「無我・無自性・法界縁起・性起・・」は、つまり「空:kuu」を言っているが、
その「空」とはもちろんただの「無」ではないのだが、
それは結局この「スーパースケール」を言っているのだが、
それを実感できないと虚無感に彩られた傍観者に終わってしまう。
それを実感できないと仏教本来のダイナミズムを知らずに終わる。
ただ何事も無く平穏無事に淡淡と過ごしていけることが本願のように錯覚してしまう。
「生きる」こととは、本来「波乱万丈」そのものなのに。
一瞬一瞬に、思議不可能な事態が待ち受けているというのに。
そのめまぐるしく変転する毎日をどうやって生き切るかが醍醐味なのに。
全ての過去の結晶が「今」であり、次次の「今」が次次と未来を創っていく。
だから、その今の中に、その時に於ける全てが見える。
占い師に聞く必要は無い。霊能者に聞く必要は無い。
自分自身でそれを見ることができるはずなのだ。
「今」が未来を創っていくが、その今とは、つまり「心」だ。
何が未来を決定していくかと言うと、つまり「心」なのだ。
その今のその心が、全てを導いていく。
心と言っても分かりにくいかも知れないので、「心境」とする。
その瞬間のその心境が、あらゆることを生み出していくのである。
「心境」もまた次次と変化する。
次次と変化する心境によって「境地」も次次と変化する。
世界には無数の命が存在し、無数の心境が存在し、無数の境地が存在する。
その無数の境地が無限に交錯して「世界の境地」が一瞬一瞬に生まれる。
「世界の境地」もまた瞬間瞬間に変化していくのである。
それぞれの個の境地が世界の境地に反映し、
世界の境地が、そのままそれぞれの個の境地に反映する。
個と個が反映し合い、個と世界が反映し合い、無限に反映し合い、無限に展開を続ける。
だから今の中にその時の全てを見たとしても、次の瞬間には別の姿へと変わっている。
一瞬一瞬刹那刹那に、全てが新たな姿に生まれ変わっていくのである。
我われは、これほどまでに凄まじいフラッシュスピードの無限展開の最中にいるのである。
それを知るか知らないかによって、あらゆることが変わってくる。
それを知り、それを厳然と受け止めれば、己の内なる声が聴こえるようになる。
己の内なる声を聴けば、己の可能性に挑み、己の個性を発揮することの重大さに気付く。
そしてその声が、どこから発せられているかが分かる。
その声が、何か慈悲的な母体から響いていることが分かる。
何か慈悲的な母体から響いてくることを実感すれば、すべての行動に思慮が働くようになる。
可能性に挑むときにも、個性を発揮するときにも、そこには思慮が働く。
その慈悲的な響きを実感すれば、思慮無しには行動できなくなる。
その慈悲的な響きとは慈悲的情緒を生み、心に湧きあがる。
その慈悲的情緒が思慮となって行動を制御するのである。
慈悲的情緒は、大慈悲へと昇華する可能性を秘めている。
つまり慈悲的情緒こそが大慈悲の幼子である。
大慈悲の幼子は、自分以外の全ての命もまたそうであることを直感する。
自分以外の全ての命が自分と同様であることを直感し、そこに「尊厳」を認める。
尊厳を認めるというよりも、尊厳を直感するのである。
全ての命が「・・天上天下唯我独尊・・」であることを直感するのである。
全ての命が「全宇宙で我は唯一の個性であるからこそ無限に尊い」のである。
だからつまり全ての命の尊厳は同等であると直感するのである。
それを直感すれば、おのずと「強欲・妄執」から離れることとなる。
それを直感すれば、自分自身でそこから離れることができるようになるのである。
「全ての命の尊厳が同等????」
「そんなこと考えてたら、生きてられねえよ!!」と思うかも知れないが、
「そんなこと非現実的な戯言だろうが!!」と感じるかも知れないが、
この世の仕組みの真相はそうなのであるから、知っておくべきなのである。
だが真相はそうなのだが、生き方はそれぞれの勝手だ。
生き方はそれぞれの勝手だが、その生き方が未来を決定していく。
ただそれだけのことだ。
荒廃し切った殺伐の未来を望むなら、真相を無視して生きればいいだけなのだ。
次次と全てが変転する流れの中でも、その本源自体は永遠に変わらない。
そもそもその本源が全てを生んだ生みの親なのであり、
もしその本源が無くなれば同時に全ても消滅するのだ。
その本源とは「大悲:思議を超えた無限の愛」であり、究極の空である・・・・・
たとえ過酷な状況の中でも、己はいかに慈悲的情緒を捨てずに生きられるか??
それが己への挑戦であり命の修行であり、魂の進化である。
はるか古代、華厳仏教は西方世界にも影響を及ぼした可能性があるらしい。
古代華厳仏教は中央アジア:コータンで研鑽されたが、それが西方にも伝わったようだ。
そしてそれは「アレクサンドリア」辺りにも伝えられたようである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪新プラトン主義の「プロティノス」(205~270)はこう語っている≫
「すべての存在は、その幅と深みに於いて相互に明瞭に知られる。
・・・光は光を貫いて走る。
しかもそのおのおのは、自らの内に全てを含み、同時に相互の中に全てを見る。
したがって、いたるところに全てがあり、
全てが全てであり、それぞれが全てであり、無限の栄光である。
そのおのおのが偉大であり、その小さき者も偉大であり、
あそこにいる太陽は星辰の全てであり、また星辰のおのおのは星辰の全てであり太陽でもある。
なんらかの存在様式がそのおのおのを支配しているが、
全ては、他のおのおのに映像されているのである・・・・・」
<プロティノスは禅定を重視し、それを実践したようだ・・>
■南無華厳 狼山道院■