<2010年7月2日>

飼主の心境ひとつで、飼犬の運命が決まる。

愛育されるのも、虐待されるのも、放棄されるのも、すべては飼主の心境次第だ。

そもそも、なぜ飼ったのか??

子犬を見て可愛いと思ったからか・・・

寂しいからペットが欲しかったからか・・・

子どもが欲しがったからか・・・

その犬種の格好よさに魅かれてか・・・

それとも、ただ「番犬」として飼ったのか・・・

いずれにしても、その飼主が「犬」をどのように見ているかで飼い方が決まる。


犬の寿命の平均が、たとえば12歳くらいだとして、

だがその12年は、犬にとっては長い長い歳月だ。

もしその飼主が、犬に心を認めない薄情人間だったなら、

その犬の毎日は、来る日も来る日も忍耐の連続だろう。

自分をその犬の立場に置き換えてみれば、それは容易に分かることだ。

鎖に繋がれ、わずか1mか2mの行動半径が、一生続く。

家の中には、その飼主家族の団欒の声が聞こえる。

その楽しげな団欒の声を聞きながら、自分はたったひとりで孤独に沈む。

1mか2mの鎖に繋がれて、毎日毎日、孤独と闘う。

その生涯を、いったいなんと呼べばいいのだろうか。

いったい誰が、ひとつの命をそんなふうな生涯で終わらせる権利を持つというのか。

いったいその犬は、なんのために生まれてきたのか??

ただひたすら忍耐だけの生涯・・・・

その犬にその運命を与えたのは、ほかならぬその飼主だ・・・・・


昨今、ペットの殺処分問題がクローズアップされているが、

ペットを保健所に連れて行くという飼主がいたとしたら、

その犬はすでに不幸な半生を歩んでいたということだ。

もしそのペットを愛育していたなら、間違っても保健所などには連れて行かない。

だからその飼主に「死ぬまで飼ってあげてください・・」と忠告したところで、

それではその犬にとっての本当の解決策にはならない。

かといって「その犬を愛してやってください・・」と頼んだところで、

それはどだい無理な話だろう。

なぜなら人の「心境」など、そんなにすぐには変わらないからだ。

よほどの何かがなければ、人の心境など変わらない・・・・・


よく「なんで捨てるの??」という疑問を抱く人がいるようだが、

「愛せないから捨てる・犬に心なんて感じないから捨てる」・・それだけだ。

たとえ生活になんらかの事情が発生しようとも、

もし犬に「命」を実感していたなら、その飼主は絶対に最悪の事態を避けるはずなのだ。

だから「ペットに命を感じない人」が減らない限り、保健所持込は決して減らないだろう。

そしてもしそのような飼主がたとえ保健所持込だけは断念したとしても、

その飼犬がその後に幸せになれる確率は絶望的に低いだろう。

いやむしろ、「この莫迦犬!!無駄飯喰らい!!」と罵られて生きることになるだろう。

それを想うと、まったく悲しくなる・・・・・


たとえば、懐かないから、可愛くない!!という飼主もいる。

ペットとして飼ったのに懐かなければ、その飼主にとっては確かに問題だろう。

ペットとして飼えば、そこで簡単に限界点が訪れてしまうのだ。

だが本当は、そこにこそ、共に生きる醍醐味が隠されている。

なぜ懐かないのか??そこには必ず理由が潜んでいるのだ。

その理由を探求し、それに対して全力で取り組んでいくと、

やがていつか、徐徐に徐徐に、何かが変わってくる。

もちろん、長い歳月を要する場合もある。

だが目には見えなくとも、だんだんだんだんと、何かが変わってくる。

「懐かせよう!!」と意気込んだところで懐きはしない。

懐かせる!!のではなく、「懐く・・・」のである。

その犬の表情が表現が、目には見えなくとも刻一刻と変わっていく。

そのとき同時に、その飼主の境涯も刻一刻と変わっていくのである。

犬とともに、その飼主もまた、新たな世界に踏み込んでいくのである。

共通の言語を持たない異種同士が、未踏の対話世界に辿り着くのだ。

こんな醍醐味は滅多にないと思うのだが・・・・・


なんで「ペット」なんかが、存在するのだろう。

いや、本来のペットとは「愛玩」なのだから、

そこには少なくとも「愛情」が存在するはずなのだが、それが方向違いに解釈されてきた。

愛玩ではなく、ただの「おもちゃ」として飼主に翻弄されるケースが多過ぎるのだ。

飼主はどこまでもペットに対して絶対の支配権を持ち、抗議さえも許さない。

もし人間が、圧倒的な力を持つ未知なる種族に征服されたとして、

そこでその種族に「ペット」にされたとして、

たとえば今の「犬」のような立場にされたとして、

そうなったら、人間はその種族に何を嘆願するのだろうか???


■南無華厳 狼山道院■