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<2010年6月23日>

人によって食事観はいろいろだ。

肉が好きな人がいる。肉を食わない人がいる。

両者の間では、しばしば議論が発生するようだ。

肉が好きな人は肉食を頑固に肯定する。

心情的に肉を食えない人は肉食を否定する。

だがその議論は、遠く平行したままで終わるようだ。

大抵は肉好き派の「誰が何を食おうが勝手だろ!!」で終わるようだ。

要は理屈ではないようだ。嗜好の問題のようだ。

肉好き派は、断固としてその嗜好を譲れないようだ。

それほどまでに肉が好きなのか・・・・

それほどまでに肉を食いたいのか・・・・

人間にとって肉がそれほどまでに魅力溢れるものだとは知らなかった。

人間の身体の構造は、到底肉食動物のものとは思えないのだが。

人間の歯もアゴも、肉を食う動物のものとは思えないのだが。


私は肉を食わない。

肉を食いたいとも思わない。

卵も食べない。牛乳も飲まない。

何も無理していない。

食いたくないから食わないだけだ。

家畜の一生を想えば、もしそれが自分だったら、耐えられないと思う。

狭いケージに押し込められて、死のその時まで耐え続ける生涯に、耐えられないと思う。

トラックに積まれて死出の旅に向かう不安と恐怖に、自分だったら耐えられないと思う。

だから食わない。とても食う気にはなれない。それだけだ。

それ以前に、この身体は肉を食わずとも生きていかれる。

肉を食わずとも生きていかれるなら、肉を食う必要が無い。

「昔の日本人は肉を食わなかったから体格が貧弱だった・・」と言われるが、

その見解は誤解のように思える。

「肉を食わなかったから貧弱だった・・」というよりも、

実のところは穀物や野菜さえも充分には食えなかったのだと思う。

肉うんぬん以前に、あまりにも粗食の度が過ぎたからのように思う。

いや、粗食と言うよりも「粗粗食」だったと思われるのだ。

だが現代では肉を使わずに「豪華で栄養満点の献立」が可能だ。

だがしかし「肉は美味い!! 肉が恋しい!!」となれば、その人は肉を食うだろう。


だが地球上には、何せ60数億の人間が生きている。

他のすべての命たちを圧倒して驚異の生存数を誇る。

地球にとっては、これは実に特異な現象なのだと思う。

60数億の人間が肉食を望んだら、それはどだい無理な注文だろう。

そもそも肉食動物とは、数が少ないものと決まっているのに・・・・・

世界には、ごく少量の「とうもろこしの粉」だけで命を繋いでいる子どもたちがいるという。

「肉」どころの話ではない。

パンも野菜も果物も、なんにも無いという。

幼子たちが、僅かなとうもろこしの粉だけで生きながらえているとは・・・・

やれ焼肉だ!!ステーキだ!!と飽食を堪能する世界とは異次元だ・・・・

肉の「生産」には、莫大なエネルギーが消費されるという。

植物栽培とは比較にならないケタ違いのエネルギーが必要とされるという。

肉を生産するということは、地球環境をとことん疲弊させるということらしい。

エネルギーというのは、つまりはコストに反映される。

だからこそ世界の家畜の生産形態はもはや「工場」と化してしまったようだ。

極限までコストを削るために家畜は徹底効率の「工場製品」となってしまった。

そこには「命」としての自然形態が存在せず、

家畜たちはつまり命としてどんどん生命力を失っていく・・・・

身体のあちこちが支障をきたし、抵抗力は衰退の一途となる・・・・

肉食嗜好は、世界の子どもたちを飢えさせ、家畜たちを苦しめる。

その嗜好が地球を疲労困憊させ、つまりは命たちを苦しめる。

そして結局、自分たち人間をも苦しめていく・・・・・

おいしいパンや野菜や果物だけでは、満足を得られないのだろうか。

とうもろこしの粉だけの生活から見れば、見事に豪華な献立だと思うのだが。


肉食派から非肉食派に対して、必ず出る意見がある。

「植物も命だ!!植物は食べてもいいのか!!植物の命を差別している!!」という意見だ。

これを言われると非肉食派は返答に困ってしまう。誰だって返答できないだろう。

確かに、厳然と植物は命だ。当然の話だ。

だが、動物と植物とでは、感覚・感性が異なる。

それを理屈で説明することはできないが、それが分かる。

私は植物の感性を知ろうと思った。

だから野性禅の中で、長い年月に亘り植物のことを想って瞑目してきた。

そうすると、植物たちが心で話しかけてくる。

それを話すと余りに長くなってしまうので短く省略するが、

その核心は、「私たちは、すべてを養っている・・」というものだった。

植物たちは草食獣を養い、そして結果として肉食獣も養っている。

植物たちは酸素を作り、そして土を作っている。微生物も虫たちも養っている。

植物たちは自らの使命を知っている。そしてその使命に喜びを感じている。

大自然の命たちはみんな、植物のことを本能で知っている。

だが人間たちは、それを知らない。

人間たちは口先は綺麗だが、本心が真逆だという。

だから人間によって植物が踏みにじられるとき、とても悲しいという。

動物たちは植物によって生きられていることを知っているという。

だから動物たちは植物に心から感謝しているのだという。

だが人間の口からでる「感謝」という言葉は、言葉に過ぎないという。

だから本当に心から感謝して食べてくれる人間のことが、とても好きだという。

植物たちは、「食べてもいい・・」と言ってくれる。

都合のいいように作文している訳ではない。

長い長い交感の果てに、やっと戴いた言葉なのだ。

だがこちらの「感謝」が、どれほどの感謝であるかは、見抜かれている。

我われはいつも植物たちから本心を見つめられているのである。

誰もが、日常の中で、いつも植物と接している。

公園の芝生。街路樹。庭の雑草。鉢植えの花。活け花。八百屋に並ぶ野菜。などなど。。

そうやって植物に囲まれて生活する中で、人は植物に対してどう想っているのか。

たとえば雑草を刈る時、人はどのような感傷を抱くのであろうか。

たとえば庭木を剪定する時、人はどのような感傷を抱くのであろうか。

たとえば大根や人参を切る時、人はどのような感傷を抱くのであろうか。

たとえば芝生の上に寝転ぶ時、人はどのような感傷を抱くのであろうか。

たとえば山道の雑草を踏んで歩く時、人はどのような感傷を抱くのであろうか。

「植物も命だ!!」と意見する人は、

植物に対して普段はどのように接しているのだろうか。

私が思うに、植物に想いを抱く人ならば、動物にも想いを抱くだろう。

「植物は食べてもいいのか!!」と叫ぶ人ならば、

動物を食べることに対する葛藤は、計り知れないものがあるだろう。

家畜たちがどのような環境で育ち、どのように死んでいくかも、心底気になるはずだ。

そしてその「感謝」も、ただの言葉では無く、深い祈りが伴ったものだろう。

「感謝」と言うからには、そこには心からの祈りがあるはずだ。

ぜひ、そうであって欲しいものだ・・・・・


ところで、「ペットフード」の問題がある。

犬猫の身体は今でも肉食獣に近い。

だからフードには「食肉の副産物」が原料として使われてきた。

だが今では技術の発達によって、

肉類を使わないで同等の栄養を備えるフードが発売されている。

あるいは、獣肉を使わずに魚類副産物を活用したフードもある。

いくら可愛いペットが喜ぶとしても、もはや気軽に肉類を与える時代ではない。

世界規模で考えればペットの数は膨大だし、その食糧内容を検討する時期に入っている。

まさに、本物のテクノロジーが求められているのである。

<これは「科学食」というニュアンスではない・・・>

※私は肉食獣である「狼」と生きた。

その当時とその後では相当に心境が変化した。

それについては「記事:俺の心」に書いた。


世間では「肉食系・草食系」という言葉が流行っているようだ。

肉が好きな連中は「タフ!! ワイルド!!」で、

食わない連中は「消極的・・弱弱しい・・」とイメージされるようだ。

だがこのイメージはとんでもなく偏見に満ちていると思う。

世界の一流のアスリートや芸術家などの中には「非肉食」の連中が大勢いるのだ。

その世界で一流となるには物凄いエネルギーが必要とされるはずだが、

彼らはそこで植物食のポテンシャルを実証してくれているのだ。

日本ではまだ、そういったことの見識が不足しているようだ。

※「非肉食」の環境的効果についてのデータは、「地球生物会議」に詳しい。


写真は標高1300mの森のなか。

ここで野性禅に入る。ここにはいろんな動物たちが集まる。


■南無華厳 狼山道院■