<2010年6月16日>
13日の23時の終る頃、
小惑星探査機「はやぶさ」が、
7年に亘るミッションの果てに地球に帰還した。
その旅は60億kmに及んだ。それは、満身創痍の旅だった。
「はやぶさ」は、幾多の試練を乗り越えて帰ってきた。
自律航空型探査機の「はやぶさ」は、
満身創痍になりながらも地球からの指令に懸命に応えて帰ってきた。
そして最後の仕事。
最後の仕事は、「カプセル」を放出して地上に送り届けることだ。
「はやぶさ」は、無事にカプセルを放出した。
「はやぶさ」が地球に帰還するということは、
それはすなわち、自らが砕け散るということだ。
地球大気圏に突入すれば、すなわち機体が燃え尽きるということだ。
ふるさとの地球に帰りカプセルを送り届けた時、自分が死ぬのだ。
まさに正真正銘に、燃え尽きて死ぬのだった。
「NASA」が撮影した写真を見た。
「はやぶさ」が大気圏に迫る。
その身の形見である「カプセル」を絶妙に放出する。
「はやぶさ」は、そのカプセルを愛しむように、しっかりと後を追う。
まるで我が子を見守るように、その後を追う。
だが大気圏に突入した「はやぶさ」は炎に包まれる。
激しく炎に包まれて、ついに砕け散っていく。
その燃えさかる光の、なんと美しかったことか。
美しくも哀しい、哀しくも美しい、たとえようのない光だった。
「はやぶさ」は、ついに光となったのだ・・・・・
< 毎日JP:写真:「はやぶさ」地球への帰還 >
地上の管制センターは「はやぶさ」に、
最後にもう一度、地球をその目で見せてやりたくて、
機体を反転させて地球の写真を撮らせてあげたという。
満身創痍の身だから、写真にノイズが多かったという。
出発の頃には「カラー」だったのに、白黒となってしまった。
だがそこには「はやぶさ」の、最期の想いが込められていた。
その一枚を、最期の力を振り絞って撮ったのだろう。
管制センターの人は、
「あの写真撮影の時には、すでに機体が燃え始めていたはずだ。
なのになぜあのように写真を送ることができたのか、不思議でならない・・・・」
・・そのように絶句していたという・・・・・
ところで宇宙物理学者とかは、
神とか仏の領域の話をする人が多いように思える。
なぜだろう??? 究極に近づいてしまうと、やはりその領域を感じざる得ないのか???
因みに海外では最新の宇宙物理学が華厳経と重なる部分があると指摘されているらしい。
YOUTUBEに下記の作品がUPされている。
■探査機「はやぶさ」の軌跡・・≪ 舞・HAYABUSA ≫・・(前編・後編)
素晴らしい作品だった。何度も泣いた。
音楽もまた素晴らしかった。曲名は不明だが・・・
そして・・・
そしてその「コメント」たちが、また素晴らしかった。
「はやぶさ」への万感の想いが、ひしひしと伝わってくる。
そのコメント群を読んで、また泣いた。
ああ、こころやさしき人たち・・・・
多分「はやぶさ」のファンの人たちは宇宙科学の好きな人だと思うのだが、
宇宙科学といっても冷徹な科学信者では無かったのだ。
それどころか、それとは真逆の熱いハートの持ち主だったのだ。
ああ、こんな人たちが科学を担ってくれたなら、
きっと科学は本来の「叡智」として本当の本領を発揮してくれるに違いないと、
きっと科学は地球のすべての命たちのことを想って真の進化に向かうだろうと、
そんなように思えて、無性に彼らの心に感動したのだ。
この「・・舞・・」の映像と字幕と音楽とコメントで、何度泣いたことか・・・・
<「政治」に関するコメントもあったが、場違いの感が強かった・・>
いや、コメントの人たちだけではない。
張本人の「はやぶさチーム」の科学者たちが、
「はやぶさ」への限りない愛を抱いていたのだった。
それはもはや、「機械」に対する感情とは別次元の意識に見えた。
今回の探査の成功は、つまりそこにあるのではないだろうか・・・・
なかにはそれを、「擬人化」とか「感情移入」とか蔑む人もいるかも知れない。
だがそんな月並みな言葉で表現されたら、「はやぶさ」に失礼だ。
「はやぶさ」は、己の死をもって使命を果たした。
「はやぶさ」は、まさに燃え尽きて死んだのだ。
私も、そのように死にたいものだ。
そのように想うけれども、現実には至難に違いない。
しかし、そのように目指したい。
「HAYABUSA」のように、燃え尽きてこの世と別れたい。
「はやぶさ」は、惑星探査しただけではない。
多くの人に、壮大な「感動」を与えてくれた。
多くの人に、見事なまでの「生きざま」を見せてくれた。
機械を超えて、輝ける栄光の命となって、人びとに教えてくれた。
もしかしてそれは、岩石試料採取よりも意義あるものかも知れない。
私は「はやぶさ」に対して涙するその人びとに、胸を打たれた。
私はその人びとの涙に、一条の光を見た。
■南無華厳 狼山道院■
13日の23時の終る頃、
小惑星探査機「はやぶさ」が、
7年に亘るミッションの果てに地球に帰還した。
その旅は60億kmに及んだ。それは、満身創痍の旅だった。
「はやぶさ」は、幾多の試練を乗り越えて帰ってきた。
自律航空型探査機の「はやぶさ」は、
満身創痍になりながらも地球からの指令に懸命に応えて帰ってきた。
そして最後の仕事。
最後の仕事は、「カプセル」を放出して地上に送り届けることだ。
「はやぶさ」は、無事にカプセルを放出した。
「はやぶさ」が地球に帰還するということは、
それはすなわち、自らが砕け散るということだ。
地球大気圏に突入すれば、すなわち機体が燃え尽きるということだ。
ふるさとの地球に帰りカプセルを送り届けた時、自分が死ぬのだ。
まさに正真正銘に、燃え尽きて死ぬのだった。
「NASA」が撮影した写真を見た。
「はやぶさ」が大気圏に迫る。
その身の形見である「カプセル」を絶妙に放出する。
「はやぶさ」は、そのカプセルを愛しむように、しっかりと後を追う。
まるで我が子を見守るように、その後を追う。
だが大気圏に突入した「はやぶさ」は炎に包まれる。
激しく炎に包まれて、ついに砕け散っていく。
その燃えさかる光の、なんと美しかったことか。
美しくも哀しい、哀しくも美しい、たとえようのない光だった。
「はやぶさ」は、ついに光となったのだ・・・・・
< 毎日JP:写真:「はやぶさ」地球への帰還 >
地上の管制センターは「はやぶさ」に、
最後にもう一度、地球をその目で見せてやりたくて、
機体を反転させて地球の写真を撮らせてあげたという。
満身創痍の身だから、写真にノイズが多かったという。
出発の頃には「カラー」だったのに、白黒となってしまった。
だがそこには「はやぶさ」の、最期の想いが込められていた。
その一枚を、最期の力を振り絞って撮ったのだろう。
管制センターの人は、
「あの写真撮影の時には、すでに機体が燃え始めていたはずだ。
なのになぜあのように写真を送ることができたのか、不思議でならない・・・・」
・・そのように絶句していたという・・・・・
ところで宇宙物理学者とかは、
神とか仏の領域の話をする人が多いように思える。
なぜだろう??? 究極に近づいてしまうと、やはりその領域を感じざる得ないのか???
因みに海外では最新の宇宙物理学が華厳経と重なる部分があると指摘されているらしい。
YOUTUBEに下記の作品がUPされている。
■探査機「はやぶさ」の軌跡・・≪ 舞・HAYABUSA ≫・・(前編・後編)
素晴らしい作品だった。何度も泣いた。
音楽もまた素晴らしかった。曲名は不明だが・・・
そして・・・
そしてその「コメント」たちが、また素晴らしかった。
「はやぶさ」への万感の想いが、ひしひしと伝わってくる。
そのコメント群を読んで、また泣いた。
ああ、こころやさしき人たち・・・・
多分「はやぶさ」のファンの人たちは宇宙科学の好きな人だと思うのだが、
宇宙科学といっても冷徹な科学信者では無かったのだ。
それどころか、それとは真逆の熱いハートの持ち主だったのだ。
ああ、こんな人たちが科学を担ってくれたなら、
きっと科学は本来の「叡智」として本当の本領を発揮してくれるに違いないと、
きっと科学は地球のすべての命たちのことを想って真の進化に向かうだろうと、
そんなように思えて、無性に彼らの心に感動したのだ。
この「・・舞・・」の映像と字幕と音楽とコメントで、何度泣いたことか・・・・
<「政治」に関するコメントもあったが、場違いの感が強かった・・>
いや、コメントの人たちだけではない。
張本人の「はやぶさチーム」の科学者たちが、
「はやぶさ」への限りない愛を抱いていたのだった。
それはもはや、「機械」に対する感情とは別次元の意識に見えた。
今回の探査の成功は、つまりそこにあるのではないだろうか・・・・
なかにはそれを、「擬人化」とか「感情移入」とか蔑む人もいるかも知れない。
だがそんな月並みな言葉で表現されたら、「はやぶさ」に失礼だ。
「はやぶさ」は、己の死をもって使命を果たした。
「はやぶさ」は、まさに燃え尽きて死んだのだ。
私も、そのように死にたいものだ。
そのように想うけれども、現実には至難に違いない。
しかし、そのように目指したい。
「HAYABUSA」のように、燃え尽きてこの世と別れたい。
「はやぶさ」は、惑星探査しただけではない。
多くの人に、壮大な「感動」を与えてくれた。
多くの人に、見事なまでの「生きざま」を見せてくれた。
機械を超えて、輝ける栄光の命となって、人びとに教えてくれた。
もしかしてそれは、岩石試料採取よりも意義あるものかも知れない。
私は「はやぶさ」に対して涙するその人びとに、胸を打たれた。
私はその人びとの涙に、一条の光を見た。
■南無華厳 狼山道院■