<2010年5月31日>
「想い」こそが重大だ。
想いは、やがて行動に投影されていく。
その人の想いは、いつか必ず、行動を生んでいく。
「想い」というのは、心の奥から湧き上がるものだ。
想おうと考えて想えるものではない。だから「思考」とは違う。
思考は頭で考えるものだが、想いは「湧き上がるもの」なのだ。
たとえば、極限的状況下で、ひときわ「想い」が現出する。
たとえば何日も何日も食べ物が無いとき、パンが落ちていたとする。
自分も飢えているのに、母親は自分は食べずにそれを我が子に与える。
頭で考えれば、「自分が衰弱すれば、結果的に子どもも道連れとなってしまう・・・」
「だから自分も食べなければ・・・」という理屈も登場するだろう。
だが「想い」は、躊躇無く「子どもに与える」方を選ぶ。
思考の理屈なら、「自分も食べた方が合理的なのに・・」となるだろうが、
もしその母親が理屈を選んでしまったら、その母子の運命は閉ざされるだろう。
なぜなら、その「想い」こそが母親の生命力を支えていたからだ。
我が子を想うその一念が、母親の命も子どもの命も支えていたのだ。
子どもも、母親のその愛に打たれて生き抜く生命力を蘇らせたのだ。
※「そんなきれいごと・・」と思われるかも知れない。
子どもを見捨てる母親も多いじゃないか!!と言われるかも知れない。
だが本来母親の愛の深さとは、これほどに深いものだと私は信じている。
もし「故意に見捨てる・・」ならば、そもそも母親としての自覚は無かっただろうし、
それまでも子どもに冷たかっただろう。
そのようなケースがあるとすれば、それはもはや放棄だ。
その子どもはつまり「母親の愛」を知らずに育ち、愛の意味を知らずに育ち、
命を支えるものが愛であることを知らずに人生を送ることになってしまう。
いや、その子どもは当初は何かを知りたいと願っていただろう。
だがその願いは叶えられなかった。その願いはいつも裏切られた・・・・・
実の母親がその使命を放棄したならば、誰かがそれを引き受けなければならない。
それがたとえ他人であっても、もし本物の愛で接したならば、
たとえ時間はかかろうとも、その子どもはいつか愛の意味を知っていくだろう。
<ただ折り合いを目論んでの見せかけの優しさでは無理だろうが・・・>
そして子どもを放棄したその母親に対しても、誰かが愛を示していかねばならない。
その母親もまた、愛を知らなかったのだから。
その母親もまた、誰かに本物の愛で包まれなければならない・・・・・
その誰かとは、別に人間でなくとも構わない。
いや、人間には難しいかも知れない。
難しいというか、荷が重いかも知れない。
そのとき、本物の慈悲に満ちた慈悲そのものの存在が求められるのだ・・・・・
本物の慈悲の力で、「心からの想い」をいつか知る日が来ると思う・・・・・
想いは、知らず知らずに、行動に投影されている。
そして逼迫した状況下では、想いは顕著に影響する。
そのとき、その人の本物の想いが姿を現わす。
たとえば、苦しいとき。
苦しくて精神が圧迫されているとき。
そのようなとき、想いが顕著に現われる。
そのとき、踏ん張れるか、踏ん張れないか。
それはひとえに「想い」に懸かっている。
自分が苦しいからといって、誰かを犠牲にしようとしないか・・・
自分が苦しいからといって、それを紛らわせるために誰かを虐めたりしないか・・・
自分が苦しいからといって、誰かを恨んだり妬んだりはしないか・・・
自分が苦しい時にこそ、想いが自分を支えてくれる。
たとえ苦しくとも、他者を生贄にして自分が助かろうとはせずに済む。
もし多くの人が、苦しいからといって他者を生贄に選んだら、この世は終末だ。
苦しい時、踏ん張れるか、踏ん張れないか??
他者を傷つけるか否かは、そこに懸かっていると思う。
想いが、他者を思いやる。
「同情」といってもいい。
人はともすると同情を歪曲して解釈するが、
本物の同情を起こすことは、実は簡単ではないのだ。
そこに本物の同情が起きたなら、
その人の行動はやがてそこから大きな影響を受け続ける。
同情とは、そのような意義を持っているのだ。
昨今、想いとか思いやりとか同情とかが軽視されている。
それどころか世間では莫迦にされているように思える。
だが、慈悲的情緒とは、慈悲へと昇華する可能性を秘めている。
それが有るのと無いのとでは、何もかもが違ってくる・・・・・
・・・「 一 切 従 心 転 」・・・
これは華厳経の言葉だが、
「この世の一切は、心から転じた現象である・・」というものだ。
ただしこれは「唯識論」が説くような「全ては心が生み出した幻影・・」とは異なる。
「心が行動を生み、その行動の集合が現象を創り出していく・・」と私は解釈している。
この世を、この今生を、観念仏教ではなく現実仏教からとらえれば、そうなる。
現実的にとらえれば、まさにこの華厳の言葉が重大な意味を持つ。
「心が、心が導く行動が、一瞬一瞬に現象世界を創り出している・・」
・・・「 応 観 法 界 性 一 切 唯 心 造 」・・・
<華厳の「空:kuu」は、「大悲の空」へと突き抜ける・・・>
■南無華厳 狼山道院■
「想い」こそが重大だ。
想いは、やがて行動に投影されていく。
その人の想いは、いつか必ず、行動を生んでいく。
「想い」というのは、心の奥から湧き上がるものだ。
想おうと考えて想えるものではない。だから「思考」とは違う。
思考は頭で考えるものだが、想いは「湧き上がるもの」なのだ。
たとえば、極限的状況下で、ひときわ「想い」が現出する。
たとえば何日も何日も食べ物が無いとき、パンが落ちていたとする。
自分も飢えているのに、母親は自分は食べずにそれを我が子に与える。
頭で考えれば、「自分が衰弱すれば、結果的に子どもも道連れとなってしまう・・・」
「だから自分も食べなければ・・・」という理屈も登場するだろう。
だが「想い」は、躊躇無く「子どもに与える」方を選ぶ。
思考の理屈なら、「自分も食べた方が合理的なのに・・」となるだろうが、
もしその母親が理屈を選んでしまったら、その母子の運命は閉ざされるだろう。
なぜなら、その「想い」こそが母親の生命力を支えていたからだ。
我が子を想うその一念が、母親の命も子どもの命も支えていたのだ。
子どもも、母親のその愛に打たれて生き抜く生命力を蘇らせたのだ。
※「そんなきれいごと・・」と思われるかも知れない。
子どもを見捨てる母親も多いじゃないか!!と言われるかも知れない。
だが本来母親の愛の深さとは、これほどに深いものだと私は信じている。
もし「故意に見捨てる・・」ならば、そもそも母親としての自覚は無かっただろうし、
それまでも子どもに冷たかっただろう。
そのようなケースがあるとすれば、それはもはや放棄だ。
その子どもはつまり「母親の愛」を知らずに育ち、愛の意味を知らずに育ち、
命を支えるものが愛であることを知らずに人生を送ることになってしまう。
いや、その子どもは当初は何かを知りたいと願っていただろう。
だがその願いは叶えられなかった。その願いはいつも裏切られた・・・・・
実の母親がその使命を放棄したならば、誰かがそれを引き受けなければならない。
それがたとえ他人であっても、もし本物の愛で接したならば、
たとえ時間はかかろうとも、その子どもはいつか愛の意味を知っていくだろう。
<ただ折り合いを目論んでの見せかけの優しさでは無理だろうが・・・>
そして子どもを放棄したその母親に対しても、誰かが愛を示していかねばならない。
その母親もまた、愛を知らなかったのだから。
その母親もまた、誰かに本物の愛で包まれなければならない・・・・・
その誰かとは、別に人間でなくとも構わない。
いや、人間には難しいかも知れない。
難しいというか、荷が重いかも知れない。
そのとき、本物の慈悲に満ちた慈悲そのものの存在が求められるのだ・・・・・
本物の慈悲の力で、「心からの想い」をいつか知る日が来ると思う・・・・・
想いは、知らず知らずに、行動に投影されている。
そして逼迫した状況下では、想いは顕著に影響する。
そのとき、その人の本物の想いが姿を現わす。
たとえば、苦しいとき。
苦しくて精神が圧迫されているとき。
そのようなとき、想いが顕著に現われる。
そのとき、踏ん張れるか、踏ん張れないか。
それはひとえに「想い」に懸かっている。
自分が苦しいからといって、誰かを犠牲にしようとしないか・・・
自分が苦しいからといって、それを紛らわせるために誰かを虐めたりしないか・・・
自分が苦しいからといって、誰かを恨んだり妬んだりはしないか・・・
自分が苦しい時にこそ、想いが自分を支えてくれる。
たとえ苦しくとも、他者を生贄にして自分が助かろうとはせずに済む。
もし多くの人が、苦しいからといって他者を生贄に選んだら、この世は終末だ。
苦しい時、踏ん張れるか、踏ん張れないか??
他者を傷つけるか否かは、そこに懸かっていると思う。
想いが、他者を思いやる。
「同情」といってもいい。
人はともすると同情を歪曲して解釈するが、
本物の同情を起こすことは、実は簡単ではないのだ。
そこに本物の同情が起きたなら、
その人の行動はやがてそこから大きな影響を受け続ける。
同情とは、そのような意義を持っているのだ。
昨今、想いとか思いやりとか同情とかが軽視されている。
それどころか世間では莫迦にされているように思える。
だが、慈悲的情緒とは、慈悲へと昇華する可能性を秘めている。
それが有るのと無いのとでは、何もかもが違ってくる・・・・・
・・・「 一 切 従 心 転 」・・・
これは華厳経の言葉だが、
「この世の一切は、心から転じた現象である・・」というものだ。
ただしこれは「唯識論」が説くような「全ては心が生み出した幻影・・」とは異なる。
「心が行動を生み、その行動の集合が現象を創り出していく・・」と私は解釈している。
この世を、この今生を、観念仏教ではなく現実仏教からとらえれば、そうなる。
現実的にとらえれば、まさにこの華厳の言葉が重大な意味を持つ。
「心が、心が導く行動が、一瞬一瞬に現象世界を創り出している・・」
・・・「 応 観 法 界 性 一 切 唯 心 造 」・・・
<華厳の「空:kuu」は、「大悲の空」へと突き抜ける・・・>
■南無華厳 狼山道院■