<2010年5月26日>

世間では「共生」が叫ばれている。

だが人間には共生など無理に近いと思う。

共生というのは、

そこに「尊厳・対話」が存在してこそ成り立つものだと思う。

そこに「リスペクト」があってこそ成立するのだと思う。

それが無ければ、共生など幻想のままに終わると思う。

だが現実を見てみれば、そこにあるのは「偏見と固定観念」だけだ。

さらに言えば「優越意識と利益主義」だけだ。

もっと言えば人間は支配者意識の塊だ。

たとえば人間は動物たちを、まず見下し、そして利益を求める。

そして自分に不利益と判断すれば絶対に許さずに排斥する。

家畜の境遇を見れば分かる。ペットの境遇を見れば分かる。

人間世界にいる動物たちの境遇を見れば一目瞭然だ。

一番身近に存在する動物たちの心境さえ理解できないのに、

野生動物や自然界など理解できようはずがない。当然の話だ。

「野性とペットは違う・・」と語る人は多いが、

確かに歴然と違う部分も多いが、その相違は大きいが、全てが違う訳ではない。

そこには共通の領域もあるし、命としての「核心」は同じだ。

日常の中では、

ペットたちに隠された本当の真髄を知る機会が無いかも知れないが、

ペットと呼ばれる動物たちにも自然界のスピリットが隠されているのだ。

だが「動物管理思想」を基にした管理飼育では、それを知ることはできない。

「人間のために動物がある」という思想は、

人間社会に絶対に不利益があってはならないとする思想は、

そもそも動物たちの精神領域など最初から無視しているのだ。

だから当然、動物たちの実像など理解できるはずがない。

理解できなければ、共生など幻想に過ぎない・・・・・

だいいち、異種の命を嫌う人が非常に多い。

たとえば「虫」は異常に嫌われるようだ。

一匹の虫が部屋に入ってきただけで、すぐさま殺虫剤を持ってくる。

確かに自分の部屋かも知れないが、一匹の虫の存在さえ許さないとは。

「自然が好き!!」と言いながら、必要以上に執拗に虫を殺していく人も多い。

なんで虫がそんなに気になるのか??なんで気持ち悪いのか??全く不思議だ。

嫌われるのは虫だけではない。

ネットの掲示板なるものに「生物嫌い板」というような書込み板があったが、

以前そこを見たことがあったが、想像以上に凄かった。

世間には生き物が大嫌いな人が、目の敵にする人が、驚くほど大勢いるのだ。

これは現実なのだ。これが世間の現実なのだ。

実社会では本心を言えなくても、そこでは存分に本心を叫べる。

それを見れば、人間が共生を口にすること自体が誤りだと思えてくる。

「そんな人ばかりではない・・」と思われるかも知れないが、

それに近い感覚の人は世間に無数に潜んでいる・・・・・

なぜそのような感覚の人が多いのかといえば、世間の総意がそうだからだ。

社会に潜む潜在世論がそうだから、そのような感覚が育つのだ。

家庭も学校も社会も、目に見えない「世論」から甚大な影響を受けているのだ。

たとえば、テレビの影響も大きいだろう。

私はテレビを持っていないが、半年に一度くらいは知人宅でテレビを見る。

そうすると、「宣伝」の量の多さに驚く。

まったく宣伝がテレビの主体となっている。

その宣伝を見てみれば、時代の流れが見えてくる。

そこに感じたものは、「排斥主義」だ。

人間の「快適」にとって邪魔なものは一切を排斥する。

その排斥を実現するために、さまざまな薬品とかを商品化する。

たとえば殺虫剤。たとえば除菌剤。たとえば消臭剤。

そういった意識がエスカレートすれば、どういうことになるか??

そういった意識が世間に浸透すれば、子供たちはどのように育つか??

※だがそのような意識を過剰に徹底すれば、いつか必ず「反動」がやってくる。

「過剰意識」となって過剰が普通となれば、この世の仕組みは必ず破綻をきたす。

この世の仕組みは破綻をきたし、それを修復するために「大きな力」が働く。

修復するために働く大きな力を、ここで「反動」と呼んだのだ・・・・・

たとえば、この世は「菌」に溢れている。

この世の生き物たちは、菌と共生している。

人間にしてみれば「有害」と見える菌も、自然界では立派な役割を持っている。

それを何から何まで十把一絡げにして、身辺のあらゆる菌を壊滅させようとは。

もし雑菌が気になったとしても、

「水」で充分に洗い流せば、それだけで雑菌はほとんど落とせる。

なのに水の洗浄力を信用せずに、いきなり除菌殺菌剤を使用する。

あるいは、たとえばペットの僅かな怪我でもすぐに「抗生物質」が使われるらしい。

あるいは、たとえば家畜なども疾病予防に頻繁にその類いが投与されるらしい。

その個体に潜在する回復力を全く無視して、薬剤に頼り切る。

それはその個体の持つ自力の抵抗力を奪う結果になりかねない。

確かに、たとえば抗生物質は偉大な発見であり多大な貢献をしてきたと思う。

だが極端な依存は、いずれ「反動」を招くと思う。

あるいは昨今、世間は消臭に忙しい。

あらゆる「匂い」を気にする。果ては嫌悪する。

消臭こそが健全文化であるような風潮だ。

全てのものに匂いがあるというのに。

匂いは重大な「個性」であるというのに。

その匂いがあるからこそ、その者であるというのに。

犬の匂い・狼の匂い・キツネの匂い・熊の匂い・猪の匂い・カモシカの匂い・・・・・

全ての者に匂いがある。それは重大至極な個性だ。

それを嫌い否定すれば、それはつまりその者を否定するということだ。

たとえば犬を頻繁に「シャンプー」する飼主がいる。

それは犬にとっては迷惑な話だ。

健康な犬なら、「自浄力」で自分の被毛を常に清潔に保っている。

健康体であるに関わらず頻繁にシャンプーするということは、「匂い」が気になるからだ。

匂いもまたその犬自身であることを、その飼主は分かっていないのだ・・・・・

確かに、いろいろと薬剤の助けが必要な場合もある。

だが、それを極端に信仰して極端に使用すれば、必ず反動が訪れる。

テレビは共生を謳う。

だが一方では真逆の主張を喧伝する。

これではまったく支離滅裂だ・・・・・


昔聞いた実話がある。

あるところで、誰かが猟犬を飼っていた。

その猟犬は、猟がヘタだった。

怒った飼主は、ある日その犬の四肢を縛り、車に乗せた。

そして川に着いた。そしてその犬を川に投げ込んだ。

だが翌日、その犬は家まで帰ってきた。

飼主を見て、尻尾を千切れんばかりに振って喜んだという。

運良く縄が解けたらしく、何とか溺れずに川から脱出したようだ。

主人から殺されかけたのに、それを知っているはずなのに、

疲労困憊の中で懸命に走って帰ってきたのだろう。

だが飼主は、さらに怒った。

またしても犬の四肢を縄で縛り、車に乗せた。

そしてまたしても、犬を川に投げ込んだ。

犬は、もう二度と戻ってこなかったという。

犬は、四肢を縛られた状態で、苦しく溺れて死んだのだ。

飼主は、その顛末を雑談同様に話したという。


世間で共生が叫ばれている。

だが「数値・・」をクリアすれば共生が実現できる訳ではない。

いくら数字を追いかけても肝心の「共生心」が不在ならば、共生など持続しない。

現代は「数値崇拝主義」だから、世間は数値のデータ無しには何も語れない。

誰もがみんな、数値のデータを背中に担いで共生を論じる。

確かに「数値」も重要だが、それもまた不可欠の判断材料だが、

それだけに気をとられていたら、一向に共生には近づけない。

だが最も肝心の「共生心」は、このままでは進化しないだろう。

なぜなら、誰もそんなことを望んでいないからだ。

なぜなら、誰も共生心などに関心を抱いていないからだ。

たとえば「たかが動物でしょ!!動物に過ぎないでしょ!!」と人は言う。

だが「たかが!!」と思っている以上、そこに共生心は微塵も無い。


人間は隔絶された人間だけの社会で生きた方がいいと思う。

その方が異種の命に迷惑を掛けないし、地球のためにいいと思う。

樹木の緑が無いと寂しいとか、動物がいないと寂しいとか、

そうした自然が無いと心が殺伐とするとか、

そのような贅沢を求める権利は人間には無いと思う。

あれほど見下してあれほど搾取してあれほど迫害したのに、

今さら都合のいいことを願っても、もう手遅れだと思う。

自分の都合のいい部分だけを求めても、さらに「反動」を招くだけだ。

世間の人たちの心模様を鑑みれば、そのように痛感する・・・・・

人間は結局、共生など求めてはいない。

人間が求めているのは、あくまでも「人間の快適」だ。

人間が求めているのは、あくまでも人間の未来の杞憂であり、地球の未来ではない。

人間の本心がそのままの傾向である限り、地球は終わりに近づくと思う。

人間はこれまで果てしなく地球の全てから恩恵を受けてきたというのに、

人間はこれまで果てしなく全ての生物たちから恩恵を受けてきたというのに、

その恩恵が無ければ人間は一瞬たりとも生きてはこれなかったというのに、

ついにそれに気づかずに、人間は全てを道連れに終わりを迎えるのか。

その運命を、人間は自ら選ぶことになるのか。


世界に、「自然信仰」がある。

「アニミズム:精霊信仰」とも呼ばれるようだ。

だがその中でさえ、未だに「生贄」を捧げる儀式が残っているという。

人間の平安のために、多くは動物を「貢物」にして自然界の御機嫌を伺うというものだ。

たとえば写真でその生贄動物の様子を見てみれば、あきらかに脅えている。

あきらかに脅え、あきらかに「許してください・・」と哀願している。

ときには首に巻かれたロープが血に染まっている。

その動物が必死に逃れようとして首が傷付いたことが、ありありと分かる。

あるいは世界の宗教の中に、やはり「生贄」が存在する。

人間の幸福のためを謳い、異種の命を奪って貢物にする。


人間だけが助かろうとすれば、結局助からない。

人間だけが幸せになろうとすれば、結局幸せにはなれない。

異種の命を想う。あらゆる命たちを想う。

想うだけで、格段に変わる。

想うだけで、すべてが変わっていく。

もし変わらなければ、つまり本心では想っていないということだ。


※これは、私の主観で書いたものではない。

山で瞑目しているなかで、野性禅のなかでインスパイアされた伝言を書いたものだ。

フクロウの歌う蒼い夜のなかで、不思議にも言葉が心に入ってくるのだ。


■南無華厳 狼山道院■