<2010年5月15日>

南無とは、帰依するという意味だ。

<深い感謝という意味もあるが・・>

だがそれだけだと分かりにくいので、

私は「一心に念じる・・命のすべてでそこに入る・・」と解釈する。

※南無という字は、インドのサンスクリット語の発音を漢字に当てたものです。


私は「南無華厳」と唱える。

実に短いが、ここに祈りのすべてを集中する。

因みに「華厳」の題名の意味の解釈はいろいろある。

大きく分けて二つの解釈があるが、

ひとつは「さまざまな個性に彩られた世界」と語られる。

もうひとつは「仏の究極の教えの顕現」と語られている。

それらを鑑みると仏の世界の顕現とは、そのハイライトとは、

さまざまな個性たちがそれぞれに個性を発揮するという状態らしい。

そこには同じ個性はふたつと無く、すべては差異に満ちている。

そしていかなる個性も唯一無二の使命を宿している。

<つまりここに「尊厳の平等」の真相が隠されている・・>

唯一無二の使命を宿した唯一無二の個性たちが一瞬一瞬に世界を生み出していく。

無数のそれぞれが無限に連鎖して一瞬一瞬に新たな世界を生み出していく。

ひとつに全体が宿り全体にひとつが映し出され、ひとつはひとつであると同時に全体である。

一瞬の中に永遠が宿り一瞬一瞬が永遠の中に刻まれ一瞬と永遠が一瞬一瞬にひとつになる。

すべては姿を変え次次と姿を変え、新たな姿で新たな世界を生み出していく。

だが次次に新たな世界の次次に新たな姿の中の核心は、永遠に変わらない。

※ところで華厳の教えは実に多岐に亘る。

だから到底手短には紹介できないが、エッセンスの一端は過去の記事に散りばめて書いてきた。

※華厳は途方も無くダイナミックなスケールなので、

皆さまが抱く「仏教」のイメージとは懸け離れているかも知れない。

<なお「五時教判」での華厳は、あくまでも天台大師による解釈にとどまる・・>


「南無阿弥陀仏」という唱名がある。

「無量光仏に帰依する」というものだが、これは「念仏」と呼ばれている。

「仏を念じる・・一心に念じる・・」・・・・

これは「極楽浄土への往生を願う・・」というような意味に思われているようだが、

本来はもっと別の、深い深い意味があるように思える。

ただ、あんまり難しいことを説いても、その時代の人たちを救えなかったから、

だから当時の時代背景に於いて最善と思われる説法がされたのだと思う。

しかし、純粋な心境となって念仏しなければ、それは念仏では無いので、

そのことを考えれば、おのずと「念仏」の意味が分かるはずだ。

もちろん入信初期に於いては、それが難しいかも知れないが、

ずっと唱名を続けられたとしたら、そこには本物の「信」が芽生えているということであり、

純粋な境地に進んでいるということになり、真の念仏に近づいているということになるだろう。

ところで親鸞(しんらん)の「悪人正機説」という思想があるが、

世間ではそのままに「悪人こそ成仏の機会に満ちている・・」と思われているようだが、

親鸞が説いているのは「悪人を自覚して念仏する人」のようである。

まったく悪人のままなら、そもそも心が念仏を拒否するだろう。

何かに目覚めたからこそ念仏を始めることができるのだと思う。

親鸞の言う悪人とは、目覚めた悪人なのだ。

もっと言えば、目覚めた悪人と言うよりも「目覚めた人」だ。

つまり、そもそも完全な善人などいるはずもなく、

「自分を善人だと勘違いしている人は目覚め難い!!」という意味も含んでいるのだと思う。

目覚めた悪人の「心の葛藤」が、どれほど大きなものか・・・・

目覚めた悪人の「懺悔」が、どれほど真摯なものか・・・・

目覚めた悪人の「念仏」が、どれほど全霊そのものか・・・・

「悪人正機説」とは、このように言っているのだと感じる。

ところで念仏は、「他力本願」だと言われている。

だが私は「他力」には思えない。

仏からの回向を今度は世間に回向する。仏に感謝しながら仏に報恩する。

それが念仏だと思うのだが、だとしたら他力と呼んでいいのだろうか。

そもそも、何が自力で、何が他力なのか??

そもそも自力だけで生きられるのか?? 他力だけで生きられるのか??

その自力他力の判断は、そもそも「人間」に可能なのか??

もし「他力本願」と言っても、他者を頼っての甘えた生活を送る訳ではないだろう。

仏にすがって人生を放棄してしまうようなことなど、しないだろう。

本物の念仏者ならば、むしろそれとは真逆の人生を送るに違いない。

他力と言っても深い意味では自力なのだと、

自力といっても深い意味では他力なのだと、

私はいつも、そのように感じている・・・・

海音寺潮五郎の短編に念仏者が主人公の話がある。

元はすこぶる粗野な荒くれ侍が、あるとき念仏を知り、

その瞬間に西方の阿弥陀仏に会いに行こうと決意してそのまま歩き出し、

飯も食わずに眠りもせずに野を越え山を越えて行くという話だ。

道なき道をただひたすら西へ西へと突き進む。

「あみだぶつよや、おーーいおい!! あみだぶつよや、おーーいおい!!」

確かこんなふうな声をあげながら、ただひとり突き進む・・・・

そして、とうとう山から海に辿り着き、

その岸壁に立つ一本の松の木に登り、そこで遥か西方を仰いだ。

真っ青な海と黄金色の空だった。

男はそこで、阿弥陀仏の声を聴いた。

「阿弥陀仏さま・・・」男は仏の声を聴き感動に身を震わせた。

そして男は無量光阿弥陀仏に見守られて微笑みのなかで息絶えた・・・・

記憶を辿って思い出したが、確かこんなふうな短編だった。

なにしろ海音寺潮五郎の作品だからその描写は胸に迫った。

「あみだぶつよや・・・・」と呼びかけながらひとり歩く男の姿に激しく胸を打たれた。

荒くれ侍が刀を捨てて着の身着のままで遥かな仏に会いに行ったのだ・・・・

男は極楽浄土に往生したかったのではない。

ただただ、途轍もなく尊い何かを感じ、その尊い何者かに会いたかったのだ・・・・

<海音寺潮五郎は華厳の本も書いている>

※親鸞は念仏を「仏への報恩」としているようだ。

※親鸞は「華厳」からも大きなヒントを得たらしい。


「南無妙法蓮華経」という唱題がある。

「妙法蓮華経に帰依する」というものだ。

果てなく深く不可思議な「妙法・蓮華経」に帰命するというものだ。

天台大師が愛し、叡山大師が愛し、日蓮上人が愛した「妙法蓮華経」である。

<日蓮上人はこの経を「真髄は経の文底に秘沈・・」という言葉で言い現わしたようだ・・>

この経典は、大いなる励ましの経だと思う。

そしてこの経は、仏道者に揺るぎ無い「信」を与えることが大きな目的のようだ。

日本語で読むと「なむみょうほうれんげきょう」のこの唱題は、多くの人を支えてきた。

この唱題を支えに世の荒波を乗り越える人が大勢いる。

それだけで充分に素晴らしいことだと思う。

その意味でこの経は、充分に目的を果たしてきたのだと思う。

特に日本ではこの経が非常にポピュラーな仏典となっている。

この経と般若心経に出会う人は、実にたくさんいるはずだ。

素晴らしい教えに出会ったとして、そこに何かを感じたとして、

無性に魅かれ、信じてみようと思い、そして始めてみる。

始めてみればそこからは自分自身の信仰だ。

自分自身の信仰を自分自身で深めていく。

教えをもっと知りたくなったら自分自身がその場を探し求める。

それは図書館かも知れない。あるいは組織かも知れない。

自分自身で自分に一番合った勉強方法を見つければいいと思う。

確かに、教えを深めるための組織であるならそれは必要だと思う。

だがそれはどこまでも学び舎であればいいと思う。

立派な会館などいらない。

豪華なロビーなどいらない。

そこに教えの真髄が宿っていれば、それだけでいいと思う・・・・


仏教にはその時代その時代に対機した経典がある。

その時代の文化や生活状況や心模様に即した経典が世に広まる。

だから経典に優劣など無い。

それぞれに目的が異なるのだ。

段階はあっても、優劣は無いのだ。

それを誤ると排撃意識を生むこととなる。

それは仏教からすれば本末転倒だ。


その経と出会い、その人は信じた。

それがその人の生きる力を深めてくれた。

それは素晴らしいことだと思う。

それがブッダの教えでもジーザスの教えでもマホメットの教えでも、

それがその人に心の底から湧きあがる感動を与えてくれたなら、それは素晴らしいことだと思う。


私は南無華厳と唱える。

だが、T・ニーリーやS・バルサモの「ゲッセマネ」の歌を聴いて慟哭する。

この世に降りたジーザスの魂の絶唱が、この胸を貫く。

みんなを想って死んだ。

みんなのために我が身を捧げた。

みんなから、あれほどまでに裏切られても、それでもジーザスは愛し続けた。

たとえ異なる宗門でも、そこに本物の愛があるのなら、私はただただ尊敬する。


■南無華厳 狼山道院■