<2010年5月11日>
人間世界に動物が存在するには、必ずある種の訓練が伴う。
そこに程度の差はあれど、スタイルの違いはあれど、何かしらの訓練が伴っている。
人間とは本能も習性も価値観も異なる動物を迎えるのだから、それは必然とも言える。
そして訓練に対する概念は、世の飼主と同じ数だけ存在する。
それぞれの組織のそれぞれの訓練規範にそれぞれが則ったつもりでいても、
その解釈は実に、そのそれぞれによって違ってくる。
その訓練のどこに視座を注ぐかも、それぞれによって全く変わってくる。
<ここで言う訓練とは、特定の訓練科目を指している訳ではない・・>
だがそれにしても、動物訓練に対する意識・意欲は、あまりにも極端な開きがある。
たとえば、訓練どころか散歩にさえ行かずに平気な飼主も存在する。
たとえば、訓練の本来を忘れて虐待と成り果ててしまう飼主も存在する。
たとえば、訓練競技にのめりこみ、競技自体が目的となってしまう飼主も存在する。
あるいは程度をわきまえて、愛犬との共感を目的として競技会に参加する飼主も存在する。
確かに各人各様なのかも知れないが、「極端な意識」はどうかと思う。
極端な意識は、本末転倒を招くだろうと思う。
なぜ極端な意識に陥るかといえば、「動物を知らないから・・」に尽きると思う。
ほんとうは、異種の動物同士が同じ世界で暮らすのだから、
そこには「互いの訓練」が存在するはずだと思う。
だが現実には、一方的な訓練となっているケースが多いのではないだろうか。
相手を訓練するのと全く同等に、己を訓練しなければならないと思うのだが・・・・
確かに、一流の指導手は克己し研鑚し求道する。
相手にだけ努力を求めるのではなく、己自身が努力する。
そこには途方もない根気と我慢が必要となる。
そのような人たちによって、世の訓練は洗練進化を果たしてきたといえる。
それにともない、世間の飼主の意識も徐々に高まってはきたと思う。
だが、その一方で、未だに旧態依然の支配意識・傲慢意識の飼主が無数に存在する。
未だに、そちらの方が比較にならないほどに圧倒的大多数だと思う。
なぜ、そのような人たちが減らないのか・・・・
一方では進化し、一方ではあまりにも昔のまま・・・・
世の中、極端すぎないだろうか・・・・
因みに私には、訓練の才能などまるで無い。
だから根気よく犬を教導できる人など見かけると尊敬してしまう。
実は私はどうしても訓練に興味が湧いてこない。
どうしても「操縦」に、興味が持てないのだ。
もちろん強力な動物の場合には「制御」は必然だが、
私には「操縦」にのめり込む情熱は無い。
基本訓練はもちろん必要だが、せいぜいそこまでだ。
そこから先の高度な「ワザ」は、その道の人たちの専門領域だ。
操縦は確かに「信頼関係の賜物・信頼関係の証」ではあるが、
私にとっては操縦とは、表現の一手段に過ぎず、絆生活に於ける一項目に過ぎない。
ただし警察犬・軍用犬などに於いては、操縦が全てとなる。
そこでは完璧な操縦こそが唯一絶対の目的となる。
つまり完全なるプロフェッショナルの世界だ。
犬たちは任務を己の使命とする。
犬たちはどんな任務をも受け入れ、任務を実行する。
犬たちは任務のために命を賭け、殉死・戦死を厭わない。
それに向けての「犬種」も作られた。
任務を受け入れ任務を遂行することに充実を覚える犬種が固定された。
百年以上に亘り莫大な頭数の犬たちを選別し続けて作出が成された。
最も著名な犬種は「ジャーマン・シェパード」だ。
ところでこのブログを荒らしに来る「アラシ・A12」は、
どうやらこの「G・シェパード」のファンの様子だ。
彼の言う「WUSV」とは、「ジャーマンシェパード世界連盟」のことだ。
また彼の言う「シュッツ」とは「防衛作業」のことだ。
<防衛犬のことを「シュッツフント」と言うはずだ・・>
多分これは「IPO・国際作業犬規定」の課目のはずだ。
これはあくまで「防衛作業」だから攻撃とは違う。
禁足咆哮(威嚇して相手をそこに釘付けにする)や、
咬捕(相手の片袖防具を咬んで捕らえる)を行うが、「リリース」が重大だ。
リリース(咬捕を止めること)が完全でなければ意味が無い。
だからこの課目は、服従訓練の最終段階とも言えるはずだ。
しかしこの「シュッツ」は、犬にとって甚だ危険な任務だ。
もしそれが実社会での実際の現場であれば、凶悪犯を相手にすることとなる。
相手は武装している確率も高いし、犬への攻撃は一切の容赦が無いはずだ。
だが犬は「片腕」を狙ってそれを咬み押さえることに専念する。
多くの場合は犬のアタックの力で相手が倒れるが、
だが死に物狂いになった相手は、もう片方の腕で凶器を取り出す場合もあり得る。
実際、確かアメリカでそのような事態となり、ナイフで警察犬が殺された例もある。
ようするに、犬は行動を徹底的に制限されているのだ。
だから最初から犬にとっては不利で危険な任務なのである。
犬はおそらくそれを承知の上で、「任務」を第一義としているのだろう。
<犬本来の戦闘態勢ならば、その攻撃は自在となるが、犯人を殺傷してしまうだろう・・>
私は前述の通り「訓練」には興味が薄い。
私が犬たちに教導してきたことは、「沈着・集中・反応感覚」を養うことだけだ。
つまり「精神的領域」を重大視してきた。
「課目」をこなすには反復練習は避けられないが、
この精神的領域は、日常のあらゆるシーンで練成できる。
たとえ「形」としては表現されなくとも、日常の殆どに活きることとなる。
だが、これはとにかく説明が難しい。
「形」として進んでいく訳ではないから、人に理解してもらうことが困難だ。
以前はたまに、世の「しつけ」なるもののサイトを読んでみた。
実にたくさんのサイトがあって、まさに百花繚乱の様相を呈している。
その主張は実にさまざまだし、正反対の主張がされている場合も多い。
これでは飼主が戸惑うのも無理は無いと思った。
どれを信じていいのか、これではさっぱり分からないだろう。
正直言って、それらのサイトで記憶に残る言葉は無かったが、気になることはあった。
多くの場合に「犬の支配性」について触れているが、
そして「子犬期行動の中で支配性を助長すると思われる部分」の厳禁を唱えているが、
私はその「・・・部分」に???を覚えた。
確かに、その行動の習慣が何かを育てていくことはあり得る。
だが、深い洞察無くただ漠然と「禁止だから禁止!!」の傾向となったら心配だ。
いつも述べているが、犬はそんなに単純ではない。
犬の精神形成は、人間の想像するよりも遥かに複雑なファクターで成り立っていく。
たとえば、これは狼の話になるが、
ときに雄狼も子狼の遊び相手を勤めるという。子狼たちは相当に荒っぽく遊ぶ。
<そのエネルギーの大きさと荒っぽさは犬の比ではない・・>
もちろん度が過ぎれば怒られて「シュン・・」とするが、
しばらくすればまた元気満々に遊びだす。そしてまた度が過ぎれば怒られる・・・・
犬の場合でも大らかな先輩犬が遊びの相手を勤めることがある。
子犬たちは相当に無茶なことをやるが、よほど乱暴な行為でない限り大目に見られる。
ときにはみんなで身体の上に攀じ登ったり、そこでレスリングしたりする。
だがよく見ていると暗黙の「禁じ手」があるようで、そのような行為は避けている。
もちろん、犬の場合でも「度が過ぎれば」怒られる。当たり前だ!!
そうやって「程度・加減」を覚えていくのだ。この「程度・加減」こそが重大なのだ。
一言で「咬む・・」と言っても、その咬み方と意義は千差万別でありさまざまだ。
犬たちは、その微妙な咬み方によって微妙な意思を伝え合っているのである。
だが、人間の皮膚は弱い。
だから人間はちょっとでも咬まれると痛がる。そして驚く。
だから犬の「微妙な咬み方による対話」を理解することができない。
だからたとえば子犬期の「遊び」に対しても神経質にならざるを得ないのだろう。
確かに、成犬となってもなお子犬期のような遊びをするとか、
あるいは迷惑な咬み癖がついてしまったとか、そのような事態を招けば大変だ。
だがそれは「子犬期の遊び」だけが原因ではないはずだ。
おそらく「本質的領域」に於いて重大な原因が隠されていると感じる。
犬は主人を「本質」で判断する。
主人がボスとしての本質を有していれば、犬は決して支配性を誇示したりはしない。
犬がもし支配性を発揮してきたとしたら、
その主人がボスの本質を失っていると自覚した方がいいだろう。
因みに私の腕には無数の傷がある。
その多くは子狼の遊びに付き合ったときの名残りだ。
海外の研究者は「頑丈な防具」を纏って子狼と付き合うらしいが、私はいつも素手だった。
だが子狼はやがて加減を覚えてくれた。
そして私の「終わり!!」の声に従うようになっていった。
そして成長するにつれ遊びも影を潜め、私に対して厚い配慮をしてくれるようになった。
今の家族たちもみんな元気いっぱいだ。
躍動の開始の時には、一斉に次々と私に向かってジャンプしてくる。
だが、もし私が一声あげれば、「終わり!!」と宣言すれば、みんなその場で即座に止める。
さらに強い口調を発すれば、即座に恐縮して正座する。
それがどんなシーンでも、一声で群れの空気が変わる。
普段は自由でおおらかだが、「状況次第・場面次第・その時次第」で厳粛な空気に一変する。
私は「臨機応変」が肝心だと思う。
だがそれを可能にするのは小手先の技術でもなく、事細かな掟でもない。
それは犬たちが主人を「ボス」として認知しているかどうかにかかっている。
<「群れ」になると、その制御の困難は何十倍にもなる・・>
■南無華厳 狼山道院■
人間世界に動物が存在するには、必ずある種の訓練が伴う。
そこに程度の差はあれど、スタイルの違いはあれど、何かしらの訓練が伴っている。
人間とは本能も習性も価値観も異なる動物を迎えるのだから、それは必然とも言える。
そして訓練に対する概念は、世の飼主と同じ数だけ存在する。
それぞれの組織のそれぞれの訓練規範にそれぞれが則ったつもりでいても、
その解釈は実に、そのそれぞれによって違ってくる。
その訓練のどこに視座を注ぐかも、それぞれによって全く変わってくる。
<ここで言う訓練とは、特定の訓練科目を指している訳ではない・・>
だがそれにしても、動物訓練に対する意識・意欲は、あまりにも極端な開きがある。
たとえば、訓練どころか散歩にさえ行かずに平気な飼主も存在する。
たとえば、訓練の本来を忘れて虐待と成り果ててしまう飼主も存在する。
たとえば、訓練競技にのめりこみ、競技自体が目的となってしまう飼主も存在する。
あるいは程度をわきまえて、愛犬との共感を目的として競技会に参加する飼主も存在する。
確かに各人各様なのかも知れないが、「極端な意識」はどうかと思う。
極端な意識は、本末転倒を招くだろうと思う。
なぜ極端な意識に陥るかといえば、「動物を知らないから・・」に尽きると思う。
ほんとうは、異種の動物同士が同じ世界で暮らすのだから、
そこには「互いの訓練」が存在するはずだと思う。
だが現実には、一方的な訓練となっているケースが多いのではないだろうか。
相手を訓練するのと全く同等に、己を訓練しなければならないと思うのだが・・・・
確かに、一流の指導手は克己し研鑚し求道する。
相手にだけ努力を求めるのではなく、己自身が努力する。
そこには途方もない根気と我慢が必要となる。
そのような人たちによって、世の訓練は洗練進化を果たしてきたといえる。
それにともない、世間の飼主の意識も徐々に高まってはきたと思う。
だが、その一方で、未だに旧態依然の支配意識・傲慢意識の飼主が無数に存在する。
未だに、そちらの方が比較にならないほどに圧倒的大多数だと思う。
なぜ、そのような人たちが減らないのか・・・・
一方では進化し、一方ではあまりにも昔のまま・・・・
世の中、極端すぎないだろうか・・・・
因みに私には、訓練の才能などまるで無い。
だから根気よく犬を教導できる人など見かけると尊敬してしまう。
実は私はどうしても訓練に興味が湧いてこない。
どうしても「操縦」に、興味が持てないのだ。
もちろん強力な動物の場合には「制御」は必然だが、
私には「操縦」にのめり込む情熱は無い。
基本訓練はもちろん必要だが、せいぜいそこまでだ。
そこから先の高度な「ワザ」は、その道の人たちの専門領域だ。
操縦は確かに「信頼関係の賜物・信頼関係の証」ではあるが、
私にとっては操縦とは、表現の一手段に過ぎず、絆生活に於ける一項目に過ぎない。
ただし警察犬・軍用犬などに於いては、操縦が全てとなる。
そこでは完璧な操縦こそが唯一絶対の目的となる。
つまり完全なるプロフェッショナルの世界だ。
犬たちは任務を己の使命とする。
犬たちはどんな任務をも受け入れ、任務を実行する。
犬たちは任務のために命を賭け、殉死・戦死を厭わない。
それに向けての「犬種」も作られた。
任務を受け入れ任務を遂行することに充実を覚える犬種が固定された。
百年以上に亘り莫大な頭数の犬たちを選別し続けて作出が成された。
最も著名な犬種は「ジャーマン・シェパード」だ。
ところでこのブログを荒らしに来る「アラシ・A12」は、
どうやらこの「G・シェパード」のファンの様子だ。
彼の言う「WUSV」とは、「ジャーマンシェパード世界連盟」のことだ。
また彼の言う「シュッツ」とは「防衛作業」のことだ。
<防衛犬のことを「シュッツフント」と言うはずだ・・>
多分これは「IPO・国際作業犬規定」の課目のはずだ。
これはあくまで「防衛作業」だから攻撃とは違う。
禁足咆哮(威嚇して相手をそこに釘付けにする)や、
咬捕(相手の片袖防具を咬んで捕らえる)を行うが、「リリース」が重大だ。
リリース(咬捕を止めること)が完全でなければ意味が無い。
だからこの課目は、服従訓練の最終段階とも言えるはずだ。
しかしこの「シュッツ」は、犬にとって甚だ危険な任務だ。
もしそれが実社会での実際の現場であれば、凶悪犯を相手にすることとなる。
相手は武装している確率も高いし、犬への攻撃は一切の容赦が無いはずだ。
だが犬は「片腕」を狙ってそれを咬み押さえることに専念する。
多くの場合は犬のアタックの力で相手が倒れるが、
だが死に物狂いになった相手は、もう片方の腕で凶器を取り出す場合もあり得る。
実際、確かアメリカでそのような事態となり、ナイフで警察犬が殺された例もある。
ようするに、犬は行動を徹底的に制限されているのだ。
だから最初から犬にとっては不利で危険な任務なのである。
犬はおそらくそれを承知の上で、「任務」を第一義としているのだろう。
<犬本来の戦闘態勢ならば、その攻撃は自在となるが、犯人を殺傷してしまうだろう・・>
私は前述の通り「訓練」には興味が薄い。
私が犬たちに教導してきたことは、「沈着・集中・反応感覚」を養うことだけだ。
つまり「精神的領域」を重大視してきた。
「課目」をこなすには反復練習は避けられないが、
この精神的領域は、日常のあらゆるシーンで練成できる。
たとえ「形」としては表現されなくとも、日常の殆どに活きることとなる。
だが、これはとにかく説明が難しい。
「形」として進んでいく訳ではないから、人に理解してもらうことが困難だ。
以前はたまに、世の「しつけ」なるもののサイトを読んでみた。
実にたくさんのサイトがあって、まさに百花繚乱の様相を呈している。
その主張は実にさまざまだし、正反対の主張がされている場合も多い。
これでは飼主が戸惑うのも無理は無いと思った。
どれを信じていいのか、これではさっぱり分からないだろう。
正直言って、それらのサイトで記憶に残る言葉は無かったが、気になることはあった。
多くの場合に「犬の支配性」について触れているが、
そして「子犬期行動の中で支配性を助長すると思われる部分」の厳禁を唱えているが、
私はその「・・・部分」に???を覚えた。
確かに、その行動の習慣が何かを育てていくことはあり得る。
だが、深い洞察無くただ漠然と「禁止だから禁止!!」の傾向となったら心配だ。
いつも述べているが、犬はそんなに単純ではない。
犬の精神形成は、人間の想像するよりも遥かに複雑なファクターで成り立っていく。
たとえば、これは狼の話になるが、
ときに雄狼も子狼の遊び相手を勤めるという。子狼たちは相当に荒っぽく遊ぶ。
<そのエネルギーの大きさと荒っぽさは犬の比ではない・・>
もちろん度が過ぎれば怒られて「シュン・・」とするが、
しばらくすればまた元気満々に遊びだす。そしてまた度が過ぎれば怒られる・・・・
犬の場合でも大らかな先輩犬が遊びの相手を勤めることがある。
子犬たちは相当に無茶なことをやるが、よほど乱暴な行為でない限り大目に見られる。
ときにはみんなで身体の上に攀じ登ったり、そこでレスリングしたりする。
だがよく見ていると暗黙の「禁じ手」があるようで、そのような行為は避けている。
もちろん、犬の場合でも「度が過ぎれば」怒られる。当たり前だ!!
そうやって「程度・加減」を覚えていくのだ。この「程度・加減」こそが重大なのだ。
一言で「咬む・・」と言っても、その咬み方と意義は千差万別でありさまざまだ。
犬たちは、その微妙な咬み方によって微妙な意思を伝え合っているのである。
だが、人間の皮膚は弱い。
だから人間はちょっとでも咬まれると痛がる。そして驚く。
だから犬の「微妙な咬み方による対話」を理解することができない。
だからたとえば子犬期の「遊び」に対しても神経質にならざるを得ないのだろう。
確かに、成犬となってもなお子犬期のような遊びをするとか、
あるいは迷惑な咬み癖がついてしまったとか、そのような事態を招けば大変だ。
だがそれは「子犬期の遊び」だけが原因ではないはずだ。
おそらく「本質的領域」に於いて重大な原因が隠されていると感じる。
犬は主人を「本質」で判断する。
主人がボスとしての本質を有していれば、犬は決して支配性を誇示したりはしない。
犬がもし支配性を発揮してきたとしたら、
その主人がボスの本質を失っていると自覚した方がいいだろう。
因みに私の腕には無数の傷がある。
その多くは子狼の遊びに付き合ったときの名残りだ。
海外の研究者は「頑丈な防具」を纏って子狼と付き合うらしいが、私はいつも素手だった。
だが子狼はやがて加減を覚えてくれた。
そして私の「終わり!!」の声に従うようになっていった。
そして成長するにつれ遊びも影を潜め、私に対して厚い配慮をしてくれるようになった。
今の家族たちもみんな元気いっぱいだ。
躍動の開始の時には、一斉に次々と私に向かってジャンプしてくる。
だが、もし私が一声あげれば、「終わり!!」と宣言すれば、みんなその場で即座に止める。
さらに強い口調を発すれば、即座に恐縮して正座する。
それがどんなシーンでも、一声で群れの空気が変わる。
普段は自由でおおらかだが、「状況次第・場面次第・その時次第」で厳粛な空気に一変する。
私は「臨機応変」が肝心だと思う。
だがそれを可能にするのは小手先の技術でもなく、事細かな掟でもない。
それは犬たちが主人を「ボス」として認知しているかどうかにかかっている。
<「群れ」になると、その制御の困難は何十倍にもなる・・>
■南無華厳 狼山道院■