<2010年5月5日>
群れのボスは、力だけではなれない。
力だけあっても、その立場にはいられない。
左目次の「野性のリーダー」にも書いたが、
「ボス」とは、さまざまな複合要素で成り立っている。
特に、野生に於いては、その存在が群れの者たちの生死に直結しているから、
並大抵の覚悟ではボスの座にいられない。
そこでは人間社会以上に、ボスに対する洞察と審判が行われているのだ。
犬たちも本来は、その社会にいた。
だが人間に飼われるようになり、主人をボスと敬愛するようになった。
犬たちは、ボスがボスであって欲しいと願ってきた。
だが人間の場合は、「真のボスのありかた」に無頓着だった。
人間は端から、なんの疑問も持たずに「犬は主人に従って当然!!」と思い込んできた。
「食わせてやっているんだ!!なんの文句がある!!犬畜生の分際で!!」・・・・
昔は確かにそのような心境の飼主が多かった。
だからどんな横暴も世間的に許されてきた。
そこにどんな理不尽な事情が隠されていようとも、主人への抗議など許されなかった。
<それは今でも、許されてはいないが・・・・>
そのようなとき、犬の心はいつも葛藤の中にある。
そしてその葛藤が、やがて精神の混乱を生んでいく。
だが心が回復を求めても、環境がそれを許さない。
多くの場合、それが他界の日まで続く。
犬は普通、主人を立てる。
どんな猛犬も、主人を立てる。
自分の方が圧倒的に強力だと分かっている場合でも、主人を立てる。
なぜ立てるのか?? 主人が好きだからだ。
なぜ立てるのか?? 主人をボスと仰ぎたいからだ。
へりくだっているのではない。媚を売っているのではない。
純粋に、心から好きだから。
純粋に、仰ぎ、敬慕したいから。
それだけだ。そこには不純な動機など一切ない。
なかには、力で犬を抑え込もうとする飼主もいる。
力で制圧することが主人の証だと妄信しているようだ。
犬が主人を立てていることも知らないで、
その主人は「自分の腕力が犬への制御力となっている」と錯覚する。
そのような飼主は、格段に烈しく強力な猛犬を相手にした時には、我を失う。
我を失い、どんどん犬への怒りを募らせる。
そして遂には、手段を選ばぬ卑怯で冷酷な制裁を犬に与える。
もはや、ボスの資格などどこにもない。
そこにあるのは、傲慢酷薄な支配者の姿だ。
ボスの資格は、力だけではない。
だが、優しさだけではない。
そしてもちろん、「過保護」ではない。
保護と過保護の判断は難しいかも知れないが、
しかし保護と過保護は、天地の開きがある。
過保護は、「放棄」と紙一重でもある。
なぜならそれが「過!!保護」であることに気づかない訳だから、
その飼主はつまり犬を知らないということにつながり、
いつか限界を迎える可能性があることを示している。
<それが過保護であるかどうかは、犬と対話すれば分かる・・・・>
何かの事情で、とことん精神が追い詰められた犬。
過去の強烈なトラウマを抱えている犬。
そんな犬を家族として引き取ったとき、困難は大きい。
まず、時間が必要だ。焦りは絶対に禁物だ。
まず、その犬に落ち着いた環境を与える。
当面は、余計な詮索をしなくていい。
その静かに落ち着ける聖域で、犬はだんだんに心の荒波を鎮めていく。
それから、徐々に徐々に、対話していく。
対話も、焦ってはならない。
焦って多弁となっても意味は無い。
回復期間は、個体によって実に差が大きい。
何日かで打ち解ける場合もある。何年もかかる場合もある。
だがたとえ何年経過しようとも挫ける必要はない。
目には見えなくとも、その犬の心の内側では、何かが変化し続けているのだ。
その犬は、たとえ表面には現わさなくとも、その新たな主人の全てを見つめている。
その主人の挙動を、気配を、心模様を、信念を、見つめ続けている。
そしてある日突然に、その犬の表現が変わることがある。
揺るぎ無い絆に向かう扉が、突然に開かれることがある。
だがその日は、何もせずにやっては来ない。
その主人が真のボスを目指し続けた暁にやって来る。
※ところで世の中には、犬に狂気を植えつける人たちもいる。
手段を選ばずに、たとえば極限まで闘争心を煽ったり、わざと攻撃的にさせたり・・・・
それは、とことん徹底的に行われる。
犬の本意など徹頭徹尾無視され、狂気のレベルとなるまで行われる。
当然、犬は命としては扱われない。
最初から最後まで、「マシン」として使われる。
外から見ればその犬は獰猛だが、
その犬の魂は、悲鳴をあげている。
その犬の魂を癒し心を回復させるには、もはや困難を通り越して至難となるだろう。
■南無華厳 狼山道院■
群れのボスは、力だけではなれない。
力だけあっても、その立場にはいられない。
左目次の「野性のリーダー」にも書いたが、
「ボス」とは、さまざまな複合要素で成り立っている。
特に、野生に於いては、その存在が群れの者たちの生死に直結しているから、
並大抵の覚悟ではボスの座にいられない。
そこでは人間社会以上に、ボスに対する洞察と審判が行われているのだ。
犬たちも本来は、その社会にいた。
だが人間に飼われるようになり、主人をボスと敬愛するようになった。
犬たちは、ボスがボスであって欲しいと願ってきた。
だが人間の場合は、「真のボスのありかた」に無頓着だった。
人間は端から、なんの疑問も持たずに「犬は主人に従って当然!!」と思い込んできた。
「食わせてやっているんだ!!なんの文句がある!!犬畜生の分際で!!」・・・・
昔は確かにそのような心境の飼主が多かった。
だからどんな横暴も世間的に許されてきた。
そこにどんな理不尽な事情が隠されていようとも、主人への抗議など許されなかった。
<それは今でも、許されてはいないが・・・・>
そのようなとき、犬の心はいつも葛藤の中にある。
そしてその葛藤が、やがて精神の混乱を生んでいく。
だが心が回復を求めても、環境がそれを許さない。
多くの場合、それが他界の日まで続く。
犬は普通、主人を立てる。
どんな猛犬も、主人を立てる。
自分の方が圧倒的に強力だと分かっている場合でも、主人を立てる。
なぜ立てるのか?? 主人が好きだからだ。
なぜ立てるのか?? 主人をボスと仰ぎたいからだ。
へりくだっているのではない。媚を売っているのではない。
純粋に、心から好きだから。
純粋に、仰ぎ、敬慕したいから。
それだけだ。そこには不純な動機など一切ない。
なかには、力で犬を抑え込もうとする飼主もいる。
力で制圧することが主人の証だと妄信しているようだ。
犬が主人を立てていることも知らないで、
その主人は「自分の腕力が犬への制御力となっている」と錯覚する。
そのような飼主は、格段に烈しく強力な猛犬を相手にした時には、我を失う。
我を失い、どんどん犬への怒りを募らせる。
そして遂には、手段を選ばぬ卑怯で冷酷な制裁を犬に与える。
もはや、ボスの資格などどこにもない。
そこにあるのは、傲慢酷薄な支配者の姿だ。
ボスの資格は、力だけではない。
だが、優しさだけではない。
そしてもちろん、「過保護」ではない。
保護と過保護の判断は難しいかも知れないが、
しかし保護と過保護は、天地の開きがある。
過保護は、「放棄」と紙一重でもある。
なぜならそれが「過!!保護」であることに気づかない訳だから、
その飼主はつまり犬を知らないということにつながり、
いつか限界を迎える可能性があることを示している。
<それが過保護であるかどうかは、犬と対話すれば分かる・・・・>
何かの事情で、とことん精神が追い詰められた犬。
過去の強烈なトラウマを抱えている犬。
そんな犬を家族として引き取ったとき、困難は大きい。
まず、時間が必要だ。焦りは絶対に禁物だ。
まず、その犬に落ち着いた環境を与える。
当面は、余計な詮索をしなくていい。
その静かに落ち着ける聖域で、犬はだんだんに心の荒波を鎮めていく。
それから、徐々に徐々に、対話していく。
対話も、焦ってはならない。
焦って多弁となっても意味は無い。
回復期間は、個体によって実に差が大きい。
何日かで打ち解ける場合もある。何年もかかる場合もある。
だがたとえ何年経過しようとも挫ける必要はない。
目には見えなくとも、その犬の心の内側では、何かが変化し続けているのだ。
その犬は、たとえ表面には現わさなくとも、その新たな主人の全てを見つめている。
その主人の挙動を、気配を、心模様を、信念を、見つめ続けている。
そしてある日突然に、その犬の表現が変わることがある。
揺るぎ無い絆に向かう扉が、突然に開かれることがある。
だがその日は、何もせずにやっては来ない。
その主人が真のボスを目指し続けた暁にやって来る。
※ところで世の中には、犬に狂気を植えつける人たちもいる。
手段を選ばずに、たとえば極限まで闘争心を煽ったり、わざと攻撃的にさせたり・・・・
それは、とことん徹底的に行われる。
犬の本意など徹頭徹尾無視され、狂気のレベルとなるまで行われる。
当然、犬は命としては扱われない。
最初から最後まで、「マシン」として使われる。
外から見ればその犬は獰猛だが、
その犬の魂は、悲鳴をあげている。
その犬の魂を癒し心を回復させるには、もはや困難を通り越して至難となるだろう。
■南無華厳 狼山道院■