<2010年5月3日>

熊の気配を感じる。

猪たちも活動している。

山のみんなが命を謳歌している。

夜になれば、なおそれが濃密に伝わる。

夜だと静寂が深まるから、かなり遠くでも彼らの気配が分かる。

いつものように夜の森で野性禅に入れば、彼らの姿も見えてくる。

それぞれがそれぞれの生き方で、

それぞれがそれぞれに力の限りに、

この今生の生涯を精一杯に生きている。

その姿が、その心境が、胸に迫る。

※彼らがいるから、我われも生きられる。

動物たちや草たちや樹木たちや虫たちや、

つまり自然界のみんなのお陰で、人間たちも生きられる。

彼らの懸命の営みが、彼らの命懸けの生涯が、

ひいては空気を生み水を保ち土に命を与え、地球の環境を存続させてきた。

彼らがいなければ、つまり人間は生きてこれなかった。

彼らがいなければ生きてこれなかったというのに、だが人間はそれを忘れてしまう。


山の動物たちは、「間合い」を知っている。

微妙な間合いと呼吸を、本能で知っている。

余計な争いを起こさないために、余計な乱れを起こさないために・・・・

彼らはだから、呼吸と間合いに対して、いつも真剣だ。

そのことに対して、いつも精神を研ぎ澄ませている。

山の動物を知るには、まずこのことを念頭に置かなければならない。

それを念頭に置けば、おのずと歩き方も変わってくる。

それを念頭に置けば、おのずと己の気配も変わってくる。

我が家の犬たちも、それを知っている。

山の動物たちと同様に、それを心得ている。

彼らは「熊の巣」も知っている。

彼らは「猪の巣」も知っている。

だが犬たちは、決して彼らの聖域を侵さない。

トレッキングの最中に彼らに挨拶に伺うこともあるが、それだけだ。

もし挨拶の時でも、もちろん仁義を心得ている。

そこには暗黙の間合いがあり、暗黙の呼吸がある。

だから熊たちや猪たちも、我われの存在を認めてくれている。

彼らもたまに遊びに来る。

何が欲しくて来るのではない。遊びに来るのだ。

だがその時にも、彼らは暗黙の約束を守っている。


山の命たちは、乱れた呼吸を嫌う。

乱れた呼吸と無遠慮な間合いは、彼らに強い警戒心を起こさせる。

山の命たちと共感するために、今日も野性禅に入る。

■南無華厳 狼山道院■