<2010年5月1日>
狼の動きを言葉で表現することは至難だ。
だいいち狼は、さまざまな種類の動きをする。
まるで熊のような、重く悠然とした動きの時もある。
まるで猫のような、しなやかで柔らかい動きの時もある。
ときには、まさしく鋼鉄のバネとなる。
ときには、フラッシュのようなロケットスピードを炸裂させる。
私はいつも狼の動きに見とれていた。
私は、ただ唖然とするしかなかった。
大自然の神業・・・野性界の芸術・・・・・
狼の動きの背景に、いったい何が秘められているのか。
野性の反応感覚の背景に、どれほど果てしない苦闘の歴史が隠されているのだろうか。
私はいつも、そこに想いを馳せていた。
30年前、私はある動物園の狼舎の前に座っていた。
平日でほとんど客がいなかったので、ゆっくりと眺めていられた。
狼の邪魔にならないように静かに座っていた。
もし狼が私を邪魔に感じるようだったら、即座に去るつもりでいた。
その雄狼は大きかった。
立ち上がると、2mはあった。
これは誇張ではない。
彼はカナダ北部の森林狼だったが、北方狼ならばこれくらいのサイズはいるのだ。
そして重厚な骨格だった。
腰も後肢も、まったく健全に成長している。
犬の場合には超大型犬になると、どうしても後肢が発達不全というか弱くなりがちだ。
前半身に較べて後ろの発達が追いつかないケースが多いのだ。
だが狼の場合には、それが当てはまらない。
もし後肢が弱ければ、
それは「動けない」ことを意味しており、大きな負荷に耐えられないことを意味しており、
つまり野生の中では生きていけないこととなるのだ。
縦横無尽に変幻自在の動きをするには、腰と後肢の発達も条件となるのだ。
※世に超大型犬種のマニアは多いが、サイズだけに囚われることは危険だ。
本来必要とされるべき「機能・能力」を無視すれば、つまりは不幸な犬を増やすことにもなる。
実際、日常の生活に於いてさえ大きな支障をきたすケースも多いのだ。
大昔のロシアンオフチャルカやコーカサシアンマウンテンドッグやチベッタンマスティフは、
超大型にして野性の身体を持っていたらしい。
だが彼らは半分は荒野の命だったから、その精神も非常に野性的だったらしい。
彼らの役目は「護衛」だが、村人も彼らの本質と存在意義を認めていた。
彼らを理解する村人だから彼らと暮らせたのだろうが、
もし彼らを理解できない人間に彼らが飼われれば、それは不幸の始まりとなる。
私は静かに立った。
そして狼舎のフェンスにゆっくりと近づいた。
雄狼が近寄ってきた。
実に見事な体格だ。
毛色は灰褐色。そして黒い毛先の先端は赤い鉄錆色に輝いていた。
犬にも「狼灰色・胡麻毛」とか呼ばれる毛色があるが、狼の毛色は独特無類だ。
狼の場合には松の樹皮状のような複雑な紋様が織り込まれている。
狼は一見すれば灰色・灰褐色・黒灰色に見えるだけだが、よく見れば犬とは違うことが分かる。
<どうも「狼犬」の場合には、この特徴が薄れるようだ・・>
その雄狼は、なんの気負いも無かった。
まさに彼は、自然体だった。
彼は、ただ立っている。
だが実は、彼の身体の軸心は完全なバランスを保っていた。
もちろん、無意識に。
無意識の元に、彼の身体には瞬発の反応態勢が潜んでいた。
一瞬間に身体の全ての力をそこに集中する野性瞬発力が待機していた。
私は、そぶりを微塵も見せずに、いきなり唐突に、左に動いた。
すると狼は、私のその動きに、間髪を入れずにシンクロした。
私の突然の動きに一切の遅れなく狼はシンクロしたのだ。
私は今度は、右に動いた。今度もいきなり唐突に。
だが狼は、またも同時にシンクロした。
まるで鏡だ。これはまるで鏡だと私は驚嘆した。
彼はなんの構えなく、ただただ平然と、どこまでも自然体のままで着いてくる。
これが狼か!!
野性界とは、このような世界なのか・・・・
このような者たちがそれぞれに全身全霊の命懸けで生きている世界なのか・・・・・
以前の記事にも書いたが、
大昔、山中で日本狼と対峙した剣士が、ついに抜刀すらできずにその場に凍りついたという。
私はその剣士の心境が想像できる。
僅かでも動いた瞬間に狼から一撃を受けることを、直感で覚ったのだろう・・・・
<剣士が動けないことを見抜き、狼は去ったという・・・>
たとえば、自分の足元に何かが落ちていたとする。
狼は10m先にいたとする。
もし、どちらが早く拾えるかを勝負すれば、狼に敵わないだろう。
たとえていうなら、狼の動きはそのくらいに速い。
私はいつも、そのような力の一端を目の当たりにしてきた。
野性に潜在する途方もない底力をありありと実感してきた。
そしてそれが「精神」と直結していることを確信した。
だが野性の能力、その美しい芸術に、人々はあまり関心を持たない様子だ。
たとえばスポーツ選手や武道家も、野性たちの動きを参考にしてみたらどうだろうか。
きっと、語り尽くせないほどの何かを学べるに違いない。
あるいはまた、たとえば禅家も参考にしてみたらどうだろうか。
野性の気配を、人間界には無い気配を、そしてその極自然体を参考にしてみればと思うのだ。
■南無華厳 狼山道院■
狼の動きを言葉で表現することは至難だ。
だいいち狼は、さまざまな種類の動きをする。
まるで熊のような、重く悠然とした動きの時もある。
まるで猫のような、しなやかで柔らかい動きの時もある。
ときには、まさしく鋼鉄のバネとなる。
ときには、フラッシュのようなロケットスピードを炸裂させる。
私はいつも狼の動きに見とれていた。
私は、ただ唖然とするしかなかった。
大自然の神業・・・野性界の芸術・・・・・
狼の動きの背景に、いったい何が秘められているのか。
野性の反応感覚の背景に、どれほど果てしない苦闘の歴史が隠されているのだろうか。
私はいつも、そこに想いを馳せていた。
30年前、私はある動物園の狼舎の前に座っていた。
平日でほとんど客がいなかったので、ゆっくりと眺めていられた。
狼の邪魔にならないように静かに座っていた。
もし狼が私を邪魔に感じるようだったら、即座に去るつもりでいた。
その雄狼は大きかった。
立ち上がると、2mはあった。
これは誇張ではない。
彼はカナダ北部の森林狼だったが、北方狼ならばこれくらいのサイズはいるのだ。
そして重厚な骨格だった。
腰も後肢も、まったく健全に成長している。
犬の場合には超大型犬になると、どうしても後肢が発達不全というか弱くなりがちだ。
前半身に較べて後ろの発達が追いつかないケースが多いのだ。
だが狼の場合には、それが当てはまらない。
もし後肢が弱ければ、
それは「動けない」ことを意味しており、大きな負荷に耐えられないことを意味しており、
つまり野生の中では生きていけないこととなるのだ。
縦横無尽に変幻自在の動きをするには、腰と後肢の発達も条件となるのだ。
※世に超大型犬種のマニアは多いが、サイズだけに囚われることは危険だ。
本来必要とされるべき「機能・能力」を無視すれば、つまりは不幸な犬を増やすことにもなる。
実際、日常の生活に於いてさえ大きな支障をきたすケースも多いのだ。
大昔のロシアンオフチャルカやコーカサシアンマウンテンドッグやチベッタンマスティフは、
超大型にして野性の身体を持っていたらしい。
だが彼らは半分は荒野の命だったから、その精神も非常に野性的だったらしい。
彼らの役目は「護衛」だが、村人も彼らの本質と存在意義を認めていた。
彼らを理解する村人だから彼らと暮らせたのだろうが、
もし彼らを理解できない人間に彼らが飼われれば、それは不幸の始まりとなる。
私は静かに立った。
そして狼舎のフェンスにゆっくりと近づいた。
雄狼が近寄ってきた。
実に見事な体格だ。
毛色は灰褐色。そして黒い毛先の先端は赤い鉄錆色に輝いていた。
犬にも「狼灰色・胡麻毛」とか呼ばれる毛色があるが、狼の毛色は独特無類だ。
狼の場合には松の樹皮状のような複雑な紋様が織り込まれている。
狼は一見すれば灰色・灰褐色・黒灰色に見えるだけだが、よく見れば犬とは違うことが分かる。
<どうも「狼犬」の場合には、この特徴が薄れるようだ・・>
その雄狼は、なんの気負いも無かった。
まさに彼は、自然体だった。
彼は、ただ立っている。
だが実は、彼の身体の軸心は完全なバランスを保っていた。
もちろん、無意識に。
無意識の元に、彼の身体には瞬発の反応態勢が潜んでいた。
一瞬間に身体の全ての力をそこに集中する野性瞬発力が待機していた。
私は、そぶりを微塵も見せずに、いきなり唐突に、左に動いた。
すると狼は、私のその動きに、間髪を入れずにシンクロした。
私の突然の動きに一切の遅れなく狼はシンクロしたのだ。
私は今度は、右に動いた。今度もいきなり唐突に。
だが狼は、またも同時にシンクロした。
まるで鏡だ。これはまるで鏡だと私は驚嘆した。
彼はなんの構えなく、ただただ平然と、どこまでも自然体のままで着いてくる。
これが狼か!!
野性界とは、このような世界なのか・・・・
このような者たちがそれぞれに全身全霊の命懸けで生きている世界なのか・・・・・
以前の記事にも書いたが、
大昔、山中で日本狼と対峙した剣士が、ついに抜刀すらできずにその場に凍りついたという。
私はその剣士の心境が想像できる。
僅かでも動いた瞬間に狼から一撃を受けることを、直感で覚ったのだろう・・・・
<剣士が動けないことを見抜き、狼は去ったという・・・>
たとえば、自分の足元に何かが落ちていたとする。
狼は10m先にいたとする。
もし、どちらが早く拾えるかを勝負すれば、狼に敵わないだろう。
たとえていうなら、狼の動きはそのくらいに速い。
私はいつも、そのような力の一端を目の当たりにしてきた。
野性に潜在する途方もない底力をありありと実感してきた。
そしてそれが「精神」と直結していることを確信した。
だが野性の能力、その美しい芸術に、人々はあまり関心を持たない様子だ。
たとえばスポーツ選手や武道家も、野性たちの動きを参考にしてみたらどうだろうか。
きっと、語り尽くせないほどの何かを学べるに違いない。
あるいはまた、たとえば禅家も参考にしてみたらどうだろうか。
野性の気配を、人間界には無い気配を、そしてその極自然体を参考にしてみればと思うのだ。
■南無華厳 狼山道院■