<2010年4月20日>

「宝山思想」という思想がある。

これは私が名付けたのだが、

思想者は「たんぽぽ」というハンドルネームの御仁だ。

発想も彼であり、彼のオリジナル思想である。

※彼は「宝の山」というブログの著者である。

※話し振りだと、彼はおそらく60代前半か??


彼の情熱は、なかなかに凄い。

おそらく一日中パソコンの前でその思想を磨いている様子だ。

パソコンを前に思想を練磨できるのだから、それは凄いことだ。


彼は一応マルクス思想を学んできたらしいが、

それを足掛かりに独自思想を展開しているらしいが、

もはや全くのオリジナル思想と呼んでもいいと感じる。

そこまでに至るには長い歳月を必要としただろうに、よく続けてきたものだ。

何が彼の執念を支えてきたのか??

これは実際に会って、「生の彼」と交感しなければ分からないだろう。

画面上の彼の文字をいくら眺めていても、

彼の本当の内面を見抜くことは難しいだろう。

いつかお会いして、その思想のハイライトに耳を傾けたいものだ。

<電話番号は彼にも知らせてあるが、残念ながらまだかかってこない・・・>

※彼はつまり、

「人間は別格であり別格の立場を維持しなければならない。

たとえば動物の境遇を悲しむことなどは異常な感傷であり不要である・・」

というようなことを執拗に熱弁している。


彼は本人の弁によると、「人権派の闘士」らしい。

どのような形でそれを実践しているのかは不明だが・・・

人一人を助けることさえ容易ではないのに、

現実の実生活でそれは至難とも呼べるのに、

彼はそれを自認するのだから、大変な人物なのだろう。

もしポケットにお金が入っていたら、道で行き逢う貧しき人に半分渡して、

「これで今日明日のご飯を食べてください・・」と告げて立ち去る人なのだろう。

路地裏で暴行を受けている女性を発見すれば、

身を挺してその女性を庇うような、そんな人なのだろう。

人権思想を語る人ならば、そのくらいの行動は至極当然のことだろう。

サイトの文面を見れば反骨精神を謳っているから、

きっと警察も司法も頼らずに、己の実力で事態を解決しようとする人だろう。

彼の文面から受ける印象では、私はこのような人物像を想像するが、

きっとそのような人であって欲しいと願うばかりだ。

また、彼が「プロレタリアアート」を気取るのなら、

当然、過酷な肉体労働者の体験を持っていると想像するが、どうなのだろう??

その体験の年月があって初めて、

それで初めてその世界を実感し、その心境を実感することができるのだ。

あるいは、人がとことん極貧に落ちたとき、人がとことん辛酸を舐めたとき、

そのとき人はどのような心境となるのか、それも体験してみなければ分からない。

そのようなこともきっと体験していると想像するが、どうなのだろう・・・・


ところで彼は、私を「重症!」と認定してくれた。光栄だ。

その御礼に、彼へのささやかなアドバイスを捧げよう。

彼は、長い歳月を思考迷宮に囚われ、魂が封印されてしまった。

彼の中で余りにも頭が占有し、頭が全てを分析し、

最も肝心の「感性」が錆付いてしまった。

全てを理屈で分析しようとするから、

だから表層から2枚目くらいのところまでしか見えないのだ。

頭での思考では、それが限界なのだ。

だが、彼はそれが限界であることに、未だに気付いていない。

私はそれを彼に伝えてあげたいのだ。まことに僭越ながらも・・・

そして彼には、「動物の心の世界」を知ってもらいたい。

これは是非とも知ってもらいたい。

なにしろ彼は、それを知らずに語り続けているのだ。

彼はそれを知らずに、一方的に一面のみを語っているのだ。

それを知らずに語るから、つまり話の半分は「想像・創作」なのである・・・・


だが彼の「説得力」は、なかなかに大したものだ。

あれだけ動物擁護派連中を愚弄しているのに、誰も彼に反論できない。

「関わりたくない・・」と思われているのかもしれないが・・・

しかし彼の言動は、世間を煽動する怖れがある。

それを野放しにしているのだから、動物擁護派の人たちも鷹揚だ。

※彼は「愛護」と「愛誤」を使っているが、

実際の本心では、動物擁護派に対する彼の認識は「愛誤」だけである。

それに気付かない人が多い様子だが・・・・


昨日、彼からコメントを戴いたのだが、言っている意味が分からない。

私の頭が悪いせいもあるだろうが、解読できなかった。

ひとつだけ言わせてもらえば、

私は多分、現実に於いては彼よりも、

誰かを助ける実際行動をしてきたと思う。

ここで言葉に出すのは気恥ずかしいが、

昔、都会にいた頃には、見ず知らずの盲目の人の杖になったこともある。

虐待されているらしい子供の家に乗り込んだこともある。

腰がひどく曲がったお婆さんが働くのを見かけて、毎日パンを届けたこともある。

リンチされている子を助けに乗り込んだこともある。

若い頃は、そんなことばかりやっていた。

だから稼いでも、大半はそんなことに消えていった。

私はつまり、立場の弱い人を見ると、どうしても放っておけなかった。

それが嵩じて、「最も立場の弱い命・・動物たち」に目を向けるようになった。

※確かに、大勢でシュプレヒコールをあげることも必要かもしれないが、

己一人に立ち返ったとき、果たしてどのような行動を決断できるのか。

私はそれをいつも自問している。


私の中には、左翼も右翼もない。

私の関心は、「慈悲へと昇華する可能性を秘めた慈悲的情緒・・」であり、

その思想が、その哲学が、その宗教が、それを根幹にしているかどうか、それだけだ。


なお、一昨日の「盲導犬」の冒頭の二行を変えた。

確かに推測の域を出ていないのだから、新たな二行に変えた。

だがそもそもこの記事は、

「盲導犬の心境の実像」を世間に知ってもらうために書いたものだ。

その根本の目的を、内容の核心を、理解して戴きたい。

盲導犬の心境の実像を広く世間が知ったなら、

今よりもずっと「盲目の人と盲導犬の絆」への理解が深まり、

そしてその双方が共に幸せになれる環境となるだろう。

そしてその絆は、人々の心に大きな影響を与えるだろう。

もし世間が、盲導犬を「道具」と見るだけで終わってしまったなら、

世間は「盲目の人の心の実像」をも理解できずに終わるだろう。

なぜなら盲目の人と盲導犬とは、一心同体であるからだ。

■南無華厳 狼山道院■