<2010年4月17日>

ずっと雪が降り続いた。森はまた銀世界だ。

だが冬の雪とは違うので、やっかいな重い雪だ。

夜中から朝まで、犬舎の周辺を除雪した。

粉雪と違って、相当に時間がかかった。


今日は仕事が無いのでブログを開けてみた。

「ヤハウェ(ペテロ)」という方から、

「no.286:動物権・・」宛にコメントが来ていた。

何を伝えたいのか、だいたいは分かった。

その方のブログの大まかな概容を一読した。

大変に詳細な内容なので、全体を知るには相当な時間がかかると感じた。

それに較べて、私のブログなど実に大雑把だ。

私には「どの典籍の何章のどこに何が書かれていて・・・」などという芸当はできない。

心に響いた内容は心に刻まれているから心が憶えているが、頭ではあまり憶えていないのだ。

だから今までほとんど「引用」という形は取ってこなかった。

すべて、心で感じたことだけを書いてきた。


この方の御進言の意味は、だいたい分かる。

短い中に詰め込まれているが、言いたいことは分かった。

ごもっともかも知れない。

だが御指摘の部分は、最初から百も承知なので、いまさら答えようがない。

人にはそれぞれの役割がある。

私には私の役割がある。

私の役割とは、それはブログの随所に散りばめて綴ってきた。

だからこのブログ全体を読んで戴ければ把握できると思う。

「宗教・思想」に詳しい人は大勢いる。

人間を知り、人間を憂い、人間を導こうとする人は大勢いる。

それはその人たちの役割であり、それに人生を賭けているだろう。

私の場合は、このブログに書いてある通りに、

動物界・野性界からの伝言を人間界に送り届けることが役割だ。

そのためには、人間界の僧侶や導師とは異なるスタンスが必要となる。

人間界の宣教者と同じスタンスでは、動物たちは救えないからだ。

だから敢えて異端者の烙印を押される運命を選んでいる。

私は、この使命のために生まれ、この使命のために死ぬ。

「功徳がどうの・・・」など、私は関心が無い。

「自分がどうの・・・」など、私は関心が無い。

私にとっての私は「伝言者・・」であり、それだけだ。


それがどの辺に書かれていたかは憶えていないが、

確か旧約聖書に関する書物にも「動物への慈悲」の場面があった。

「市場に売られていく子牛の境遇」に想いを馳せ、

そのとき憐憫の情を持つことは、とても大事なことなのだと、そのように書かれていた。

他者の境遇に想いを馳せ、その境遇に心で逢いに行くことが、それこそが重大だ。

ジーザスが嫌っていたという「パリサイ人・律法学者」には、

慈悲へと昇華する慈悲的情緒が欠けていたらしいが、

理屈に囚われた理屈人は、どうもその「慈悲的情緒」を軽視するようだ。

いや、それを体感できないので軽視・蔑視するしかないのだろう。


なお、この方は「家畜へと生まれ変わり・・・」と書いているが、

私はそのような形の輪廻転生は実感できない。

私が感じるには「転生」は、

もっともっと遥かにダイナミックなスケールだと思う。

宇宙世界には無数の次元世界があり無数の異世界があり、

そのどこに生まれるかは想像のレベルを超えていると感じるのだ。

まさに無限レベルだから、どこに転生するかなど誰にも分からないだろう・・・・


この方は、大変な勉強家だと思う。

真剣に考えていると感じるし、知識も凄い。

だが果たして動物たちの現実に対して何を思い、その境遇をどう考えているのだろうか。

もしこの方が「同体慈悲」の人ならば、

この方の心の底から湧きあがる、理屈を超えた大慈悲心を感じるはずなのだが、

私はそれを感じとれなかった・・・・

動物たちの現実の境遇は、この方の想像よりも遥かに悲惨だ・・・・

<この方の文章から伝わる感触は、前にどこかで会ったことがあるような気がする・・>

■南無華厳 狼山道院■