
もし人間に、動物の命を奪う権利があったとしても、
しかし、動物を苦しませる権利は無い。
たとえ殺す権利があったとしても、苦しみを与える権利は無い。
たとえ、やむなき理由で殺すことがあったとしても、
苦しませて殺す権利は無い。
何がその「苦しみの」基準なんだ??と問われれば、答えは簡単だ。
「自分」をそこに当てはめてみればいい。
自分だったら、その恐怖に耐えられるか??
自分だったら、その痛みに耐えられるか??
自分だったら、その苦しみに耐えられるか??
自分だったら、その境遇に耐えられるか??
自分だったら、その絶望に打ち勝てるのか??
自分が、脱出不可能な囚われの境遇にいたとして、
そこで殺されることが決定されたとして、
どんなに哀願してもそれが決行されるとして、
ならば、自分はどのように殺されたいか??
ならば自分は殺されるその日まで、どのように生きたいか??
どのような方法で殺されるかは、自分にとって重大問題となるはずだ。
その日までどのような境遇で暮らすかは、自分にとって重大問題のはずだ。
だが、「動物権」に関する議論に於いては、いつもいつも、
「食べて何が悪い??」「利用するために殺して何が悪い??」・・・
という意見に収束されてしまう。
いつもいつも繰り返し繰り返し、そこで炎上する。
なぜいつもそこに収束されてしまうかといえば、そこにしか関心がないからだ。
議論者たちにとって問題はそこだけであって、ほかはどうでもいい些末な部分なのだ。
人間が一旦「食べること・利用すること」を目的としたときには、
そこには「経済観念」が絶対最優先の第一義として働く。
それはもはや人間の習性として骨の髄まで染み込んでいる。
そしてそれは優れた効率の生産活動として社会に認められる。
「加工品へと変わる瞬間までの、動物たちのせめてもの平安」など気にしていたら、
そんなことを気にしていたら「非効率的な非生産的愚考」だと罵倒されるだろう。
おそらくそれが大昔から連綿と続く人間の経済観念だ。
それに対して、
「動物の立場も考えてみてください・・動物の心境も考えてみてください」などと提唱すれば、
「おまえ、頭は大丈夫か???」と言われて終わりだろう・・・・
動物の尊厳に対する現代の観念は、まさにそのような段階だと思う。
かといって、それならば「せめて安らかに生活させ、安らかに殺す・・」と誰かが言えば、
ほかの誰かは「安楽死提唱はファシズムへの加速思想だ!!」などと糾弾する。
ならば、いったいどうしろというのか??
あれも否定され、これも否定され、とどのつまりは全否定が社会の結論だ。
動物の最低限の権利を訴えても、結局のところ社会は聞く耳を持たない。
社会はいかにも冷静を装い「議論を!!」と煽るが、
その実態は議論ではなく終始一貫して攻撃だ。
その本心は「議論」を求めているのではなく、実は攻撃欲求に染まり切っている。
社会は伝家の宝刀たる「愛誤」??なる言葉を巧みに操る。
社会に迎合しない意見を唱えれば、たちどころに「愛誤!!」と罵る。
だがそもそも「愛誤・・」とは、なんなのか??
愛の真偽とは、そんなに簡単に結論できるものなのか??
「愛誤!愛誤!」と叫ぶが、「誤・・」とはいったい何を基準とするのか??
個人の観念で一概に「誤・・」と断罪していいのだろうか??
人間は、「裁く」ことが大好きだ。
大昔から、「裁く」ことが大好きなのだ。
大昔から、世界中で、「裁く」ことに快感を覚える人間が無数にいる。
そのような人たちにとっては、
人間至上主義に異を唱える者は異端者であり、愛誤者であり、魔物なのだ。
その異端者を攻撃することが、彼らの社会にとって「絶対の正義!!」なのだ。
大昔から、世界中で、「魔女裁判」のような裁きがあった。
言語を絶する拷問を続け、熱狂する民衆の見物の中で殺した。
「もう、殺してください・・」という哀願を無視し、
殺さずに苦しませ、その苦悶の姿に満足し、息絶えるさまを観賞する。
裁くこととは、なんなのか??
裁くこととは、満足と快楽なのか・・・・
人間は「愛と平和」を御旗に掲げながら、それと真反対の本心を抱いているのか・・・・
わずかでも配慮の気持ちを持って、
ちょっと考えて、ちょっと工夫してみれば、
動物にとって随分といろんな部分が改善されるはずなのだ。
しかしそれすらも許さない思想が社会には隠されている。
その思想によって、せめてものささやかな改善も妨害されるのだ。
つまり根本は、「思想」なのだ。
思想が社会を動かし、思想が社会の実態を生み出しているのだ。
「動物の立場を考えることは反社会的思想である」という旧態依然の保守思想が、
この社会に暗然と根ざし、世論を支配している。
世間は「共生!!」と叫ぶが、
人間が他種と同じ世界で共生することは無理だと感じる。
確かに、人間には人間の都合がある。
だが、本来は動物にも動物の都合がある。
人間には人間の都合があり、動物には動物の都合がある。
だが人間はそれを忘れ、あるいはそれを無視する。
だから共存・共生など不可能に近いと感じる。
よほどの意識の転換が起こらなければ、それは絵空事に終わると思う。
■南無華厳 狼山道院■