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<2010年4月13日>

もし人間に、動物の命を奪う権利があったとしても、

しかし、動物を苦しませる権利は無い。

たとえ殺す権利があったとしても、苦しみを与える権利は無い。

たとえ、やむなき理由で殺すことがあったとしても、

苦しませて殺す権利は無い。


何がその「苦しみの」基準なんだ??と問われれば、答えは簡単だ。

「自分」をそこに当てはめてみればいい。

自分だったら、その恐怖に耐えられるか??

自分だったら、その痛みに耐えられるか??

自分だったら、その苦しみに耐えられるか??

自分だったら、その境遇に耐えられるか??

自分だったら、その絶望に打ち勝てるのか??


自分が、脱出不可能な囚われの境遇にいたとして、

そこで殺されることが決定されたとして、

どんなに哀願してもそれが決行されるとして、

ならば、自分はどのように殺されたいか??

ならば自分は殺されるその日まで、どのように生きたいか??

どのような方法で殺されるかは、自分にとって重大問題となるはずだ。

その日までどのような境遇で暮らすかは、自分にとって重大問題のはずだ。


だが、「動物権」に関する議論に於いては、いつもいつも、

「食べて何が悪い??」「利用するために殺して何が悪い??」・・・

という意見に収束されてしまう。

いつもいつも繰り返し繰り返し、そこで炎上する。

なぜいつもそこに収束されてしまうかといえば、そこにしか関心がないからだ。

議論者たちにとって問題はそこだけであって、ほかはどうでもいい些末な部分なのだ。


人間が一旦「食べること・利用すること」を目的としたときには、

そこには「経済観念」が絶対最優先の第一義として働く。

それはもはや人間の習性として骨の髄まで染み込んでいる。

そしてそれは優れた効率の生産活動として社会に認められる。

「加工品へと変わる瞬間までの、動物たちのせめてもの平安」など気にしていたら、

そんなことを気にしていたら「非効率的な非生産的愚考」だと罵倒されるだろう。

おそらくそれが大昔から連綿と続く人間の経済観念だ。

それに対して、

「動物の立場も考えてみてください・・動物の心境も考えてみてください」などと提唱すれば、

「おまえ、頭は大丈夫か???」と言われて終わりだろう・・・・

動物の尊厳に対する現代の観念は、まさにそのような段階だと思う。


かといって、それならば「せめて安らかに生活させ、安らかに殺す・・」と誰かが言えば、

ほかの誰かは「安楽死提唱はファシズムへの加速思想だ!!」などと糾弾する。

ならば、いったいどうしろというのか??

あれも否定され、これも否定され、とどのつまりは全否定が社会の結論だ。

動物の最低限の権利を訴えても、結局のところ社会は聞く耳を持たない。

社会はいかにも冷静を装い「議論を!!」と煽るが、

その実態は議論ではなく終始一貫して攻撃だ。

その本心は「議論」を求めているのではなく、実は攻撃欲求に染まり切っている。


社会は伝家の宝刀たる「愛誤」??なる言葉を巧みに操る。

社会に迎合しない意見を唱えれば、たちどころに「愛誤!!」と罵る。

だがそもそも「愛誤・・」とは、なんなのか??

愛の真偽とは、そんなに簡単に結論できるものなのか??

「愛誤!愛誤!」と叫ぶが、「誤・・」とはいったい何を基準とするのか??

個人の観念で一概に「誤・・」と断罪していいのだろうか??

人間は、「裁く」ことが大好きだ。

大昔から、「裁く」ことが大好きなのだ。

大昔から、世界中で、「裁く」ことに快感を覚える人間が無数にいる。

そのような人たちにとっては、

人間至上主義に異を唱える者は異端者であり、愛誤者であり、魔物なのだ。

その異端者を攻撃することが、彼らの社会にとって「絶対の正義!!」なのだ。

大昔から、世界中で、「魔女裁判」のような裁きがあった。

言語を絶する拷問を続け、熱狂する民衆の見物の中で殺した。

「もう、殺してください・・」という哀願を無視し、

殺さずに苦しませ、その苦悶の姿に満足し、息絶えるさまを観賞する。

裁くこととは、なんなのか??

裁くこととは、満足と快楽なのか・・・・

人間は「愛と平和」を御旗に掲げながら、それと真反対の本心を抱いているのか・・・・


わずかでも配慮の気持ちを持って、

ちょっと考えて、ちょっと工夫してみれば、

動物にとって随分といろんな部分が改善されるはずなのだ。

しかしそれすらも許さない思想が社会には隠されている。

その思想によって、せめてものささやかな改善も妨害されるのだ。

つまり根本は、「思想」なのだ。

思想が社会を動かし、思想が社会の実態を生み出しているのだ。

「動物の立場を考えることは反社会的思想である」という旧態依然の保守思想が、

この社会に暗然と根ざし、世論を支配している。


世間は「共生!!」と叫ぶが、

人間が他種と同じ世界で共生することは無理だと感じる。

確かに、人間には人間の都合がある。

だが、本来は動物にも動物の都合がある。

人間には人間の都合があり、動物には動物の都合がある。

だが人間はそれを忘れ、あるいはそれを無視する。

だから共存・共生など不可能に近いと感じる。

よほどの意識の転換が起こらなければ、それは絵空事に終わると思う。

■南無華厳 狼山道院■