
22年前、家族が私とライと太郎だった頃、みんなでよく音楽を聴いた。
ある日、「アリア・・私のお父さん」を聴き始めたとき、
狼の太郎が、アゴを上げ、わずかに四肢を踏み、身体を動かし始めた。
そして、ささやくように、「ホウル(遠吠え)」を歌い始めた。
その歌の旋律が、彼の心の琴線に触れたのだろう。
そのホウルは、だんだん大きくなり、
そうすると、今度はエスキモードッグのライが、ホウルの重唱を始めた。
ライも太郎の叙情に共鳴し、魂の歌を歌い始めたのだ。
そのとき、私は太郎のすぐ横に座っていた。
ライが重唱を始めると、太郎の声量がさらに大きくなった。
ホウルの声量が、辺りの空気を揺るがす。
空気が揺れているのが分かる。
座っている私の尻に、地面からの振動が伝わる。
それほどに重く厚い、まさに重厚な声量が、
哀切のメロディーとなって響き渡る・・・・
その重唱は、私の魂を激しく揺さぶった。
彼らの想い、彼らの心境、
そういったものが見えたから、
その心の世界に感動して、魂が共振した。
我が魂を、衝撃が貫いた・・・・・・
犬たちとの散歩の合間に森に座れば、
今でも、彼らのホウルが聴こえてくる。
はるかに過ぎ去りし日の「魂のホウル」が、この胸に響き渡るのだ。
目を閉じれば、空を仰いで歌う彼らの叙情の姿が、切なくも鮮やかに蘇る・・・・・・
彼らは野性の闘士だ。
一旦本気になれば、相手をその場にフリーズさせる闘神となる。
だが、それだけではない。
だが彼らは、それだけではない。
それだけではないことを、私はこの目で見た。
この全身で、はっきりと実感した。
彼ら野性が、ただ生き抜くためだけに生まれてきたわけではないことを・・
ただ闘うためだけに生まれてきたわけではないことを・・
彼らの世界が、ただのサバイバル世界ではないことを・・・
彼らの世界が、海よりも深い感性と情感に彩られていることを・・・
たとえば「ホウル」が、学者たちの解説による「合図」の意味だけではないことを・・・
私はただ、「それだけではない・・」ことを知ってもらいたかった。
「それだけではない・・」ことを人界に知ってもらうために生きてきた。
「それだけ・・」と認識が終われば、動物への理解は永遠に閉ざされるからだ。
理解は閉ざされ、その範疇の中だけで論じられるからだ。
その固定観念に縛られた排他性が、動物との共存を徹底的に拒むからだ。
口では「エコ・共生」と唱えながら、
本心では動物を「畜生・けもの」と侮蔑する人間特有の傾向が、果てしなく続くからだ。
知らなければ、実感できなければ、論議は永遠に偏見の迷路を彷徨うからだ。
※強烈な偏見を基にして「動物の最低限の権利」さえも剥奪し、
「動物の、命としての尊厳」を世に問うことすら「カルト」と断罪する人々が存在する。
その人々はあらゆる手段を講じて、
動物擁護は「異常」なのだと、世間に認識させようとしている。
彼らは、あらゆる手段を講じて世間を煽動している。
彼らが何故にそこまで「否定」するのかと言えば、それは彼らが「知らない」からだ。
彼らはただ「動物の心の世界」を知らずにいる。あるいは実感できずにいる。それだけだ。
もし知った上で、あるいは実感した上で、それでもなお「否定」するとしたら、
それはさらに怖ろしい事態だ・・・・・
■南無華厳 狼山道院■