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<2010年4月5日>

22年前、家族が私とライと太郎だった頃、みんなでよく音楽を聴いた。

ある日、「アリア・・私のお父さん」を聴き始めたとき、

狼の太郎が、アゴを上げ、わずかに四肢を踏み、身体を動かし始めた。

そして、ささやくように、「ホウル(遠吠え)」を歌い始めた。

その歌の旋律が、彼の心の琴線に触れたのだろう。

そのホウルは、だんだん大きくなり、

そうすると、今度はエスキモードッグのライが、ホウルの重唱を始めた。

ライも太郎の叙情に共鳴し、魂の歌を歌い始めたのだ。

そのとき、私は太郎のすぐ横に座っていた。

ライが重唱を始めると、太郎の声量がさらに大きくなった。

ホウルの声量が、辺りの空気を揺るがす。

空気が揺れているのが分かる。

座っている私の尻に、地面からの振動が伝わる。

それほどに重く厚い、まさに重厚な声量が、

哀切のメロディーとなって響き渡る・・・・

その重唱は、私の魂を激しく揺さぶった。

彼らの想い、彼らの心境、

そういったものが見えたから、

その心の世界に感動して、魂が共振した。

我が魂を、衝撃が貫いた・・・・・・

犬たちとの散歩の合間に森に座れば、

今でも、彼らのホウルが聴こえてくる。

はるかに過ぎ去りし日の「魂のホウル」が、この胸に響き渡るのだ。

目を閉じれば、空を仰いで歌う彼らの叙情の姿が、切なくも鮮やかに蘇る・・・・・・


彼らは野性の闘士だ。

一旦本気になれば、相手をその場にフリーズさせる闘神となる。

だが、それだけではない。

だが彼らは、それだけではない。

それだけではないことを、私はこの目で見た。

この全身で、はっきりと実感した。

彼ら野性が、ただ生き抜くためだけに生まれてきたわけではないことを・・

ただ闘うためだけに生まれてきたわけではないことを・・

彼らの世界が、ただのサバイバル世界ではないことを・・・

彼らの世界が、海よりも深い感性と情感に彩られていることを・・・

たとえば「ホウル」が、学者たちの解説による「合図」の意味だけではないことを・・・



私はただ、「それだけではない・・」ことを知ってもらいたかった。

「それだけではない・・」ことを人界に知ってもらうために生きてきた。

「それだけ・・」と認識が終われば、動物への理解は永遠に閉ざされるからだ。

理解は閉ざされ、その範疇の中だけで論じられるからだ。

その固定観念に縛られた排他性が、動物との共存を徹底的に拒むからだ。

口では「エコ・共生」と唱えながら、

本心では動物を「畜生・けもの」と侮蔑する人間特有の傾向が、果てしなく続くからだ。

知らなければ、実感できなければ、論議は永遠に偏見の迷路を彷徨うからだ。

※強烈な偏見を基にして「動物の最低限の権利」さえも剥奪し、

「動物の、命としての尊厳」を世に問うことすら「カルト」と断罪する人々が存在する。

その人々はあらゆる手段を講じて、

動物擁護は「異常」なのだと、世間に認識させようとしている。

彼らは、あらゆる手段を講じて世間を煽動している。

彼らが何故にそこまで「否定」するのかと言えば、それは彼らが「知らない」からだ。

彼らはただ「動物の心の世界」を知らずにいる。あるいは実感できずにいる。それだけだ。

もし知った上で、あるいは実感した上で、それでもなお「否定」するとしたら、

それはさらに怖ろしい事態だ・・・・・

■南無華厳 狼山道院■