<2009年11月5日>

人間にとって、確かに人間が同族だ。

従って、同族である人間への批判は認めないという見解が圧倒的だ。

「同族に対して最大の理解を示すのが種として当然のスタンスだ・・」

「それが自然に則った真実であり、種として当然のスタイルだ・・」

「人間はすなわち徹頭徹尾に人間を擁護する使命がある・・」

このような見解は、世間ではごく普通だ。

それがスタンダードでありノーマルな思想だと、誰もが納得している。

だからそれを逸脱した見解は、即座に異端視されて攻撃を受ける。


私も人間の格好をしている。

だから私の発言は「人間の発言」だと受け止められる。

「動物の尊厳」を訴えれば、「人間として裏切り行為だ・・」と見なされる。

だが、これまでも繰り返し述べてきたが、

私は動物界からの伝言を人間界に届ける使命を背負っている。

人からなんと言われようが、その使命を果たさねばならない。


私は人間に無理難題を突きつけている訳ではない。

私は人間に根拠無きイチャモンをつけている訳ではない。

動物たちの切実な、せめてもの哀願の言葉を伝言しているだけだ。

「いくらなんでも、それは酷過ぎるだろう・・」という次元の問題を訴えているだけだ。

「いくらなんでも、程度というものがあるだろうに・・」と語っているだけだ。

だが、同族擁護主義者たちは、その哀願さえも認めない。

そのせめてもの願いさえ無視し、即座に却下しようとする。

同族の快適生活のためには動物たちの悲劇も「しょうがないこと・・」と一言で片付ける。

誰かが「動物にも、尊厳を認めて欲しい・・」と願っただけで、

その想いを木っ端微塵に粉砕しようとする・・・・・


たとえば、乳牛の過酷過ぎる一生がある。

( その実態は「地球生物会議」や「ヘルプアニマル」などのサイトに紹介されていると思う。)

生まれてから死ぬまで、彼らには平安なひとときなど無いに等しいという。

その酷使の生活の果てに、脚関節の軟骨が潰れて消滅し、

つまりその関節が「クッション無しに、骨と骨が直接当たる状態」の牛もいるという。

その状態が、どれほどの激痛地獄かは、誰にでも想像できるはずだ。

もしそれを想像できないとすれば、鈍感にもほどがある。

あるいは想像できながら無視できるとすれば、人間は実に怖ろしい。

やがてついにその牛は、立っていられなくなる。 当然だ。

そのようになった牛を、「へたれ牛」と呼ぶらしい。

酷い場合だと、へたれ牛は看護も無く放置された挙句に屠場に送られるという。

一生を人間のために捧げてくれた牛が、

渾身の気力で立ち続けてミルクを出し続けてくれた牛が、

そのような最期を迎えるケースもあるという。

いや、いずれにしても、用無しとなれば殺されるのだ。

用無しとなるまで酷使され、用無しとなれば感謝の祈りもなく屠場に送り込まれる。

それが「経済動物」の宿命であり現実だ。

だが動物界から言わせてもらえば、あんまりな話だ。

「なんでそこまで・・・」としか言葉が出ない。

このような実態は世界中で繰り広げられているらしいが・・・・・

たとえばペットを異常に過保護に扱う飼主が存在する一方で、

片や経済動物に異常な過酷生活を強いる現実が存在する。

これがどうにも不思議でならない。

なんでこんなに極端なのだろう・・・・・


「地球のみんなが家族だ・・」などというスローガンが巷に溢れているが、

その言葉はいったいどこから湧いてくるのだろうか??

人間社会に囚われた動物たちは、「この世は地獄だ・・・」と叫んでいる。

同族擁護主義者たちには、その声は聞こえないだろうが・・・・・

■南無華厳 狼山道院■