<2009年11月5日>

世間は批判に満ちている。

批判非難に情熱の全てを賭ける人間も多い。

そして世間は批判非難を、

あたかも「正義」であるかのように錯覚している節がある。

世間がそのような傾向であれば、子供たちも、そのように育つ。

子供たちは無意識のうちに親の言動に影響され、

教師の言動に影響され、テレビの言動に影響されている。

そのように育った子供たちが成長して親となり、そして子供に影響を与えていく。

「批判・非難・排他・抹殺」・・・これが現代社会の「正義」らしい・・・・


批判非難をするのは簡単だ。

自分を棚の上に上げておき、好き放題に「理想論」を掲げて攻撃する。

自分の私生活を隠しながら、自分の行状を隠しながら、ひたすら相手の粗探しに躍起になる。

現代は匿名社会だから、何を言っても自分は安全圏にいられる。

自分は常に安全圏に隠れながら、理想論を武器に徹底攻撃する。

こんな人間が増えれば、やがて社会は闇となる。

卑怯が公認され、卑怯が大手を振り、卑怯が正義だと喝采される社会になるだろう。

「美学」もへったくれもない、手段を選ばぬ姑息な卑怯が、社会の規範となるだろう。

理想論の講釈で正義派を気取るのは勝手だが、

だが自分を棚に上げながら相手に一微塵の誤りさえ許さない姿勢は、果たして正義だろうか??

自分のこれまでに於ける行為のすべてが、正義に則ったものだろうか??

その人間はこれまでに、その正義を語るだけの実体験を積んできたのだろうか??

その人間の講釈は、実際の実体験から湧き出たものなのだろうか??

それとも知識だけを、「頭の中の理屈」だけを頼りに喋っているのだろうか??


私は「正義」などを語るつもりは毛頭ない。

私は崇高な哲学など語るつもりは毛頭ない。

私はただこれまでの「実感」を、言葉に変換しているだけだ。

知識の集積ではなく、頭の中の理屈ではなく、

ただ実体験の中での実感を発信しているに過ぎない。

野性対話道に踏み込んだ26年間は、ただただ実感の年月だった。

しかしその年月の代償は大きかった。

私は世間から逸脱者の烙印を押されて生きることになった。


このブログには、三名の「アラシ」が来る。

皆さん御存知の「A12・_・林則徐」だ。

彼らは読者の目を欺き、巧妙な屁理屈を連射する。

いわゆるインテリ層らしいが、彼らは屁理屈の達人だ。

ちょっとやそっとでは太刀打ちできないほどのレベルだと言える。

彼らは思考世界の住人だ。

延々と思考世界を彷徨い、思考の呪縛から逃れられない。

だが思考の呪縛に囚われると、その思考はどんどん屈折していく。

自分では気付かずに、果てなく屈折していく。

それが思考迷路の怖ろしさだ。

へたをすれば一生、その迷宮に囚われることになる。

人間が知識を絶対視し、思考至上主義に陥れば、社会は必ず闇になるだろう・・・・・


三人トリオよ。

俺がお前たちに、なぜ答える必要がある??

なぜお前たち専用の返答など用意する必要がある??

俺は礼儀を知る真摯な人には回答する。

だがお前たちはどうだ??

はなから誹謗中傷攻撃を目的としたお前たちに、なぜ俺が答える??

自分の正体も明かさずに好き放題に暴言するお前たちに、なぜ俺が答える??

お前たちが俺に「公言」を求めるならば、

まずお前たちが公の姿を現わすことが先決であり礼儀だろうが。

まずお前たちが素性を現わし、己の実践を明らかにするのが仁義だろうが。

お前たちが人道を口にするならば、まず己から仁義を切るのが道理だろうが。

お前たちは「良識」を振り回すが、

自分の実生活に於ける「良識の実践」を披露してから相手を問い糺すのが筋だろうが。


※「我等こそ良識ある至上の愛護者だ!!」と名乗り、

異端者を排斥しようとする人たちがいるようだが、

その「正義活動」の姿は、まさに人間そのものだ。

その発想が、すでに人間特有の傾向性に満ちている。

動物界を知ろうと思うなら、野性界を知ろうと思うなら、

人間特有の思考回路から脱却しなければならない。

その思考から脱却しなければ、永遠に実感できずに終わるだろう。

■南無華厳 狼山道院■