<2009年11月1日>
「加減」は重大だ。
加減ひとつで別次元となる。
だが加減は感覚的領域だから、教えるのも教わるのも非常に難しい。
だから加減を体得するには年月を要する。
もちろん生来的にそれを感得している人もいるだろうが・・・・
たとえば「塩加減」など、
板前は「何グラム・・」などと把握している訳ではないだろう。
その料理その料理で、その状況その状況で、的確に塩を摘んでいく。
長い修業の中で感覚を練磨し、見事に的確に直感する。
多過ぎず、少な過ぎず、最大の効果を発揮する適量を、瞬間に直感する。
およそ「道」というものは、
この「加減の体得」が要諦のひとつであると思えるのだ・・・・
だが加減は、いずれにしても難しい。
難しいから、その領域を避けたくなる。
その領域を避けて、具体的に一目瞭然な表示を探す。
だがそこに落とし穴が待ち構える。
たとえば塩加減ひとつを取ってみても、
実際にはその状況の中には、見えないファクターが無数に絡み合っている訳であり、
一律に「目盛り分量」に従えば全てが丸く収まる訳ではないのだ。
その時その時で、気候も違えば材料の性質も微妙に違う。
いろんな要素が違ってくる中で、最適な塩加減を成さねばならないのだ。
その時、目盛り表示だけに頼れば、最適からは程遠くなる・・・・
一流の料理人が造ると、
「同じレシピなのに、なにか一味違う!! なぜだろう??」となるのは、
多分この「加減」の極意によるものだろう・・・・・
「手加減」という言葉がある。
「手加減」には実にさまざまな意味が込められている。
相手の個性により、状況により、状態により、その時の相手の立場により、
的確に手加減を判断する。
そこに潜在するさまざまなファクターを把握した上で、
その上で的確な手加減を果たす。
たとえば動物の教導に於いても、この「手加減」は常に重大だ。
教導に於いては、時には烈しい叱咤も必要となる。
そのプロセスに於いて、時には厳しい指導も必要となる。
たとえばその犬が無我夢中の状態に陥った時、
その犬が「我に返る・・」ために、厳しい手段で気付かせる場合がある。
「ハッ!!として我に返る・・」ように導き、緊急事態を凌がねばならない場合もあるのだ。
それを凌がねば、さらに最悪のアクシデントを呼ぶ場合もあり得るのだ。
「声」を使う場合もある。「力の声!!」だ。
普通なら、その「力の声」で充分だ。
胆からの力に満ちた声は、大抵の場合は犬の胸中に届くのだ。
だが、もしそれでも効果無き場合には、「頬」の辺りを加減した平手で打つ。
決して上から「頭」を叩いたりはせずに、横から頬を手加減して打つ。
もし仮に力で知らしめる場合には、この「手加減」が絶対不可欠なのだ。
瞬間に手加減を実行し、的確な力配分で犬を目覚めさせるのだ。
※だがもちろん心は痛み、しばらく自責の念に囚われる。
悲しくなり、他に方法が無かったと、しばらく考え込む・・・・
※小さな犬には「指・・」で充分だ。 常に犬の体格・骨格を考慮すべきだ。
※欧米では「チン・・」、すなわちアゴを下から加減して平手で打つ手段もあるようだ。
だがそれはあくまで犬が口を閉じている場合に限って欲しいが。
そうでないと思わぬダメージを招く怖れがあるだろう・・・・・
※因みに私は「チョーク・カラー」(締まる鎖の首輪)は使わない。
どんな超大型犬でも使ったことは無い。
それを日常で安易に使う人が多いように感じるが、私は疑問だ。
チョークカラーに頼らなくては制御できないのなら、強力犬種は飼わない方がいいと思う。
その式の首輪は犬体にとって時に「凶器」となることを肝に銘じておくべきだ。
現代社会では、全てを十把一絡げにして「体罰」と総括するが、私はその傾向を危険に思う。
おそらく手加減を体得できない人が、手加減の実際を実感できない人が、
全てを十把一絡げに一緒くたに総括してしまうのだろう。
手加減の意味を知らない社会は、いざ力に走った時に、一気にエスカレートするだろう。
相手のダメージを無視して、ヒステリックな徹底攻撃に走ってしまうだろう。
それこそ、最凶に危険な暴力となる・・・・・
もちろん、立場を利用して闇雲に力を振るう指導者がいたとしたら糾弾されるべきだ。
だがその指導者のそれは、すでに「暴力」なのである。
それは体罰などではなく、れっきとした暴力なのである。
因みに、ここでは決して体罰必要論を展開しているのではない。
常に「力の質・力の種類」を見抜く目を持つ必要があると言いたいのだ。
人生に於いて、生きるに於いて、誰でも「力」に関わる場合がきっと来る。
その時のために「力の実像」を知っておく必要があると思うのだ・・・・
現代社会は体罰と暴力を同一視するが、その短絡的な判断が、
さまざまな局面に於いての深い洞察を妨げているような気がする。
そこに於ける「程度・・」、そこに於ける「加減・・」は、実は重大問題なのだと思う。
なぜならそこには厳然と「心境」が反映しているからだ・・・・・
たとえば犬たちの家族に於いても、体罰と手加減が存在する。
子犬の教育に於いて、若犬の教育に於いて、手加減した咬撃で指導する場合もあるのだ。
親犬や先輩犬たちの、その加減は絶妙だ。
彼らは見事に手加減しながら、的確に指導する。
そして指導された犬たちは、そこに手加減の配慮が存在したことを、鋭く感知する・・・・
※もちろん多少の怪我が起こる場合もあるが、
それは闘争のダメージとは全くレベルが異なる・・・・・
そこに「憎しみ」が存在すれば、打たれた側は即座にそれを感知する。
その行為が指導ではなく「怒りと憎しみ」なんだと、即座に分かる。
だがそこに配慮の手加減があれば、それは伝わる。
普通ならば、その配慮の心は、充分に相手に伝わるはずなのだ。
だが現代社会では、その「手加減」を感知できない人がいるようだ。
社会がそのような「感覚的な領域」を軽視し続けた結果だと思う。
その「手加減の心」を感知できない人は、
いざ自分がその立場となった時、おそらく手加減できないだろう・・・・・
※もちろん体罰とは、その時に残された最後の手段であり、
指導の根幹が非体罰であることは、言うまでもなく当然だ。
この記事は、あくまでもそれを踏まえた上での話である。
■南無華厳 狼山道院■
「加減」は重大だ。
加減ひとつで別次元となる。
だが加減は感覚的領域だから、教えるのも教わるのも非常に難しい。
だから加減を体得するには年月を要する。
もちろん生来的にそれを感得している人もいるだろうが・・・・
たとえば「塩加減」など、
板前は「何グラム・・」などと把握している訳ではないだろう。
その料理その料理で、その状況その状況で、的確に塩を摘んでいく。
長い修業の中で感覚を練磨し、見事に的確に直感する。
多過ぎず、少な過ぎず、最大の効果を発揮する適量を、瞬間に直感する。
およそ「道」というものは、
この「加減の体得」が要諦のひとつであると思えるのだ・・・・
だが加減は、いずれにしても難しい。
難しいから、その領域を避けたくなる。
その領域を避けて、具体的に一目瞭然な表示を探す。
だがそこに落とし穴が待ち構える。
たとえば塩加減ひとつを取ってみても、
実際にはその状況の中には、見えないファクターが無数に絡み合っている訳であり、
一律に「目盛り分量」に従えば全てが丸く収まる訳ではないのだ。
その時その時で、気候も違えば材料の性質も微妙に違う。
いろんな要素が違ってくる中で、最適な塩加減を成さねばならないのだ。
その時、目盛り表示だけに頼れば、最適からは程遠くなる・・・・
一流の料理人が造ると、
「同じレシピなのに、なにか一味違う!! なぜだろう??」となるのは、
多分この「加減」の極意によるものだろう・・・・・
「手加減」という言葉がある。
「手加減」には実にさまざまな意味が込められている。
相手の個性により、状況により、状態により、その時の相手の立場により、
的確に手加減を判断する。
そこに潜在するさまざまなファクターを把握した上で、
その上で的確な手加減を果たす。
たとえば動物の教導に於いても、この「手加減」は常に重大だ。
教導に於いては、時には烈しい叱咤も必要となる。
そのプロセスに於いて、時には厳しい指導も必要となる。
たとえばその犬が無我夢中の状態に陥った時、
その犬が「我に返る・・」ために、厳しい手段で気付かせる場合がある。
「ハッ!!として我に返る・・」ように導き、緊急事態を凌がねばならない場合もあるのだ。
それを凌がねば、さらに最悪のアクシデントを呼ぶ場合もあり得るのだ。
「声」を使う場合もある。「力の声!!」だ。
普通なら、その「力の声」で充分だ。
胆からの力に満ちた声は、大抵の場合は犬の胸中に届くのだ。
だが、もしそれでも効果無き場合には、「頬」の辺りを加減した平手で打つ。
決して上から「頭」を叩いたりはせずに、横から頬を手加減して打つ。
もし仮に力で知らしめる場合には、この「手加減」が絶対不可欠なのだ。
瞬間に手加減を実行し、的確な力配分で犬を目覚めさせるのだ。
※だがもちろん心は痛み、しばらく自責の念に囚われる。
悲しくなり、他に方法が無かったと、しばらく考え込む・・・・
※小さな犬には「指・・」で充分だ。 常に犬の体格・骨格を考慮すべきだ。
※欧米では「チン・・」、すなわちアゴを下から加減して平手で打つ手段もあるようだ。
だがそれはあくまで犬が口を閉じている場合に限って欲しいが。
そうでないと思わぬダメージを招く怖れがあるだろう・・・・・
※因みに私は「チョーク・カラー」(締まる鎖の首輪)は使わない。
どんな超大型犬でも使ったことは無い。
それを日常で安易に使う人が多いように感じるが、私は疑問だ。
チョークカラーに頼らなくては制御できないのなら、強力犬種は飼わない方がいいと思う。
その式の首輪は犬体にとって時に「凶器」となることを肝に銘じておくべきだ。
現代社会では、全てを十把一絡げにして「体罰」と総括するが、私はその傾向を危険に思う。
おそらく手加減を体得できない人が、手加減の実際を実感できない人が、
全てを十把一絡げに一緒くたに総括してしまうのだろう。
手加減の意味を知らない社会は、いざ力に走った時に、一気にエスカレートするだろう。
相手のダメージを無視して、ヒステリックな徹底攻撃に走ってしまうだろう。
それこそ、最凶に危険な暴力となる・・・・・
もちろん、立場を利用して闇雲に力を振るう指導者がいたとしたら糾弾されるべきだ。
だがその指導者のそれは、すでに「暴力」なのである。
それは体罰などではなく、れっきとした暴力なのである。
因みに、ここでは決して体罰必要論を展開しているのではない。
常に「力の質・力の種類」を見抜く目を持つ必要があると言いたいのだ。
人生に於いて、生きるに於いて、誰でも「力」に関わる場合がきっと来る。
その時のために「力の実像」を知っておく必要があると思うのだ・・・・
現代社会は体罰と暴力を同一視するが、その短絡的な判断が、
さまざまな局面に於いての深い洞察を妨げているような気がする。
そこに於ける「程度・・」、そこに於ける「加減・・」は、実は重大問題なのだと思う。
なぜならそこには厳然と「心境」が反映しているからだ・・・・・
たとえば犬たちの家族に於いても、体罰と手加減が存在する。
子犬の教育に於いて、若犬の教育に於いて、手加減した咬撃で指導する場合もあるのだ。
親犬や先輩犬たちの、その加減は絶妙だ。
彼らは見事に手加減しながら、的確に指導する。
そして指導された犬たちは、そこに手加減の配慮が存在したことを、鋭く感知する・・・・
※もちろん多少の怪我が起こる場合もあるが、
それは闘争のダメージとは全くレベルが異なる・・・・・
そこに「憎しみ」が存在すれば、打たれた側は即座にそれを感知する。
その行為が指導ではなく「怒りと憎しみ」なんだと、即座に分かる。
だがそこに配慮の手加減があれば、それは伝わる。
普通ならば、その配慮の心は、充分に相手に伝わるはずなのだ。
だが現代社会では、その「手加減」を感知できない人がいるようだ。
社会がそのような「感覚的な領域」を軽視し続けた結果だと思う。
その「手加減の心」を感知できない人は、
いざ自分がその立場となった時、おそらく手加減できないだろう・・・・・
※もちろん体罰とは、その時に残された最後の手段であり、
指導の根幹が非体罰であることは、言うまでもなく当然だ。
この記事は、あくまでもそれを踏まえた上での話である。
■南無華厳 狼山道院■