<2009年10月15日>

人生を生きている以上、克服の毎日となる。

克服の力は、なんとしてでも必要となる。


はるか昔の青年時代に空手を修行した。

空手の稽古はどこも厳しいと思うが、私の所属したところも、厳しかった。

それまで腕っ節に自信があったので、自分なら大丈夫だと確信していたのだが、

想像以上の過酷さだったので驚いた。

それまで喧嘩の場数は踏んでいたが、道場は次元が異なる世界だった。

先輩と対峙しただけで、「敵わない・・・」と直感する。

向かい合っただけで、力の違いが伝わってくる。

突き一本にしても、まったく重さが違う。

「なんでこんなに違うのだろう・・・」と、不思議に思った。

ある程度の期間が過ぎると、いよいよ本当の厳しい稽古に突入する。

先輩たちが、だんだん本気の厳しさを現わしてくる。

基本の稽古も苦しかったが、組み手の稽古の緊張感は耐え難いほどだった。

先輩たちの突きは重いので、受け切れない。

その突きは顔面にも容赦なく入ってくるから、死に物狂いでやらないと大怪我になる。


だが気持ちが「逃げ」に入れば、ダメージはさらに飛躍的に大きくなる。

気持ちが逃げれば、身体も逃げに入ることになる。

そうすると、さらに攻撃を許すことになるのだ。

気持ちが逃げると、その瞬間に、最大の危機が訪れるのだ。

こちらの態勢が逃げに入れば、さらに容赦ない攻撃を受けることになるのだ。

先輩は、それを見ている。

こちらのその心模様を見ているのだ。

だから一瞬でも逃げに入れば、瞬間に烈しい攻撃が開始されるのだ。

「逃げ」が致命的な結果を招くことを、身体で教え込まれるのだ。

だからどんなに怖くとも、気持ちは前に向かわねばならない。

それしか打開の道が無いのだ。

最悪のダメージを防ぐためには、それしか方法が無いのだ。

どんなときでも、前を正視していなければ、攻撃を捌けない。

前を正視していなければ、起死回生の攻撃のチャンスも失ってしまう。

だから例え「引く」ことはあっても、逃げることは許されない。

「引く」と「逃げる」では、まるで別世界なのだ。

引いた時にも気持ちは攻撃の態勢であり続け、攻撃の瞬間を狙うのだ。

※因みに空手は、受けと攻撃が一体だ。

受けた瞬間には、すでに攻撃が開始されている。

受けた後に攻撃に移っていたら、すでに相手の攻撃を受けている。


強い奴はゴマンといる。

強いと思っても、上には上がいくらでもいる。

それに実力が伯仲していれば、勝負は紙一重だ。

空手の動きは何しろ速いから、ほんの一瞬が命取りになるのだ。

勝つか負けるかなど自分にも相手にも分からないのだ。

だがいずれにせよ、気持ちが逃げたら終わりだ。

そうすれば瞬間の反応が不可能になる。

そして最悪のダメージを招く。


道場には猛者がゴロゴロいた。

彼らから較べれば、私などほんの可愛いレベルに過ぎなかった。

だが空手の精神の一端は、多少なりとも学んだつもりだ。

私などが語るのは余りにも僭越なのだが、

武道は勝負を超越した領域にこそ、その真髄が隠されているのだと感じた。


怖さを克服する。苦しさを克服する。孤独を克服する。

いろんなことを克服しながら生きるのが人生だと思う。

克服すると、どんどん底力が高まるから、余裕が生まれる。

余裕が生まれれば、大抵のことが平気になる。

少しぐらいの壁など気にならずに平然と乗り越えていける。

そうすると新たなステージが現われる。

そしてそこでまた克服し、さらに底力を高める。

そしてまた新たなステージに向かっていく。それが人生だと思う。

■南無華厳 狼山道院■