<2009年10月11日>
森は、かなり気温が下がってきた。
もう平野部の初冬くらいの冷気に満ちている。
このまま加速度的に、あの凄まじい寒気の世界に入っていくだろう。
森の冬が来れば、もう記事を書くことが難しくなる。
寒気と降雪に伴うさまざまな作業が発生してくるからだ。
犬たちの飲み水はたちまちに凍り、
降雪が続けば、スコップ一本で延々と除雪する毎日となる。
森への道は除雪車など来ないから、四駆のクロカン車でも走破困難となる日もあるのだ。
だから今のうちにと、記事を書いてきた。
書けるときに書いておかねば、いつ書けるかも分からないのだ・・・・
※犬たちは、冬に備えて体力作りをしてきた。
酷寒による激しい消耗に耐えられる体力を生むために、
厚く密生したアンダーコートを生むために、
がんがん食べ、がんがん運動した。
今は最長老が13歳、次が12歳、次が11歳、次が10歳、そして6歳、5歳と続く。
( 11歳が3頭、6歳が2頭、5歳が11頭いる。)
13歳の「蓮」は短毛で高齢なので要注意だが、彼の底力を信じるしかない。
元気に数キロの運動をこなし、すこぶる食欲旺盛なので、きっと大丈夫だ・・・・
■「スプリング」さんから、真摯なコメントがいっぱい来ていた。
日々、深く考えているのだと思う。 その姿勢に敬意を表したい。
氏の意見は、誠にごもっともだ。
おそらく世間からの反発は非常に少ないと思う。
世間一般論として、その意見の理屈は人々に伝わると思う。
その意見の広報は、それはそれで素晴らしい仕事だと思う。
だが実情として世間の多くは、その本心は、氏のような心境とは異なる価値観にいる。
信じられないほどの冷酷非情も、想像以上にたくさん実在する。
試しに、実生活で関わるさまざまな人たちに、さりげなく、意見を聞いてみると分かる。
このネット上だと、さもみんなが真剣に考えているような錯覚に陥るが、
試しにコミュニティーの人達とか仕事関係者とか友達とか、
そういったさまざまな人たちに、さりげなく聞いてみると分かる。
我が想いと世論とが、想像以上に懸け離れていることを思い知らされる。
例えばそのような価値観の人たちへ、本心の想いを語れば、
その反応は火を見るよりも明らかだ。「?????」で終わる。
忌憚なく意見を語るには「時機」があり、それを無視すれば空回りとなる・・・・
世間の意思が醸成されるには、長い長い時間がかかると思う。
人から人へ口伝いに伝わり、世間にだんだんと浸透し、徐々に徐々に醸成されていく。
結局、世間を変えるのは世間しかない。
律法や戒律で世間の本心など変わりはしない。
理屈の倫理観だけで人の心は変わりはしない。
人々が心からの本心で思わなければ、何も変わらない。
人々の総意が世論となり、社会通念となるのだから、
人々の心そのものに訴えていくしかない。
だが人の心に訴えるなど、生易しいものではない。
人の心深くに迫るなど、至難の業だ。
至難だが、あきらめる訳にはいかない。
動物たちの心を知った以上、彼らを裏切る訳にはいかない。
誰を責めてみたところで、堂々巡りになる。
何故ならそれぞれに言い分があるからだ。
そしてそれぞれに、それを譲らないからだ。
その是非は、世間がしてくれる。
世間が判断し、そして社会通念へと発展する。
ところで私に出来ることは、「ヒント」を提言していくことだけだ。
そのヒントが、もしかして誰かの心に届くかも知れないと、
そしてその人が、また誰かにヒントを投げかけてくれればと、
そのような思いで発信している。
ここで言うヒントとは、「動物たちの心の世界」のことだ。
だが彼らの心の世界を知ってもらったとして、
しかしその後の判断は、その人その人に委ねるしかない。
人の感受性は千差万別だし、どう感じるかなどその人の問題なのだ。
私はつまり、そのようなスタンスにいる。
動物界からの伝言者の立場で、提言を続けてきたのだ。
意見の発言もあるが、あくまでも伝言者としての発言なのだ。
■例えば「ペット」に関わる諸問題。
私は、人間はペットを飼わない方がいいと思っている。
これだけ無尽蔵のように問題が溢れ続け、それが一向に治まらないのだ。
そもそも「ペット」感覚ならば、安易に捨てる飼主がいても何ら不思議ではない。
ペット感覚ならば、憂さ晴らしの虐待行為が起こっても何ら不思議ではない。
それが「ペット」であるならば、それは避けられない宿命となる。
だからそもそも、ペットなど飼うこと自体に誤りがあると、そう思うのだ。
最初から、問題発生が、火を見るよりも明らかなのだ。
「コンパニオン・アニマル」という概念がかなり定着してきたとはいえ、
それでも問題はなかなか治まらない。
なぜなら、いくら「家族同様」と意識しても、
動物たちの「導きの者・リーダー」になるのは難しいからだ。
共通の言語を有する人間同士の家族に於いてさえ、
「家長」の任務を果たせずに破綻する場合も多いのだ。
だからもしそれでも動物と暮らしたいのなら、「真のリーダー像」を探求し、
そして真のリーダーで在り続ける不断の努力が必要だ。
リーダーとは、
ボスであり、統率者であり、導きの者であり、そして揺るぎない愛の実践者であり、
そして不屈の覚悟を持った守護者でなければならない。
大袈裟と聞こえるかも知れないが、それがリーダー!!だ。
動物たちは、真のリーダーを、心から慕う。
怖れるのではなく、忍従するのではなく、心から愛慕するのだ・・・・
子供が欲しがっているからとか、
情操教育の教材にしたいからとか、
寂しいからとか、ただ番犬に使うからとか、
そのような発想ならば、すでに破綻は目に見えている。
だが現実には、そのような安易な動機が大半を占めているのだ。
これは殺処分問題を問う以前の、それ以前の問題なのだ。
どうかこれを、動物界からの伝言として受け止めて欲しい・・・・
■スプリングさんは、「原罪」という言葉を使った。
とても分かりやすい論理だ。
かりに原罪だとするなら、もしそうならば動物の悲劇の大半は避けられない。
だとするなら、人間の英知を絞って「手段・方法」を考え抜いて欲しい。
人間の全能力を注いで、命を戴く際の配慮を実現して欲しい。
こうやって苦しめて殺すと旨味が増すから・・とか、
生きたまま剥ぐと毛皮が綺麗なままだから・・とか、
そのような不遜な理由で尊い命を弄ぶことは、何としてでも止めて欲しい。
無理難題を突きつけている訳ではない。
これは「せめてもの・・」哀願なのだ。
人類が偉大な賢者ならば、人類が愛に満ちているならば、
動物たちのせめてもの願いを、聞いて欲しいのだ・・・・
※「捕鯨」の実態については、詳しく知らない。
だがどうだろうか・・実際にはどうやって殺されるのだろうか??
「モリ」を打ち込まれたままに逃げ惑い、苦痛と衰弱の果てに死ぬのだろうか??
それが母クジラの場合だと、
子クジラが必死になって母に寄り添い続けるというような話を聞いたことがある。
母の血で染まった海の中で、子クジラは母を励まし続けると聞いたことがある。
その惨劇が海の中なので実感が薄れるようだが、
もしそれが地上なら、どのような光景に映るだろうか??
せめて、苦痛を最小限に抑える方法は無いのだろうか??
そのような配慮は、研究されているのだろうか??
今の科学ならば、それはさほど難しい課題では無いと思うのだが・・・・
あるいは、そのような配慮さえ持たずにいるのだろうか??
もし未だにそうであるならば失望する。
なにしろ、尊い命を戴くのだ。
その配慮さえも不要だと言うのなら、人類の倫理観に失望する。
※「肉食・非肉食」の論議は、延々と果てない。
いつまでも平行線のままだが、それは当然とも言える。
「食いたい!!」と「食わなくてもいい!!」・・・
「どうしても食いたい!!」と「食いたくない!!」・・・
両者はこのような心境なのだから、論議が成立するはずがない。
ただ、「食わない!!」という人は、無理して食わない訳ではない。
肉を食う・・という欲求が、もはや起こらないのだ。
あるいは非常に薄れたのだ。
なぜ薄れたのかは、なぜ起こらなくなったかは、それぞれに違うだろうが・・・
食いたい!!という人には、食わない人のその感覚が分からないと思う。
たとえそこにいくら理論が存在しようとも、納得がいかないだろう。
納得がいかなければ、論議には発展しないだろう。
だがいずれ、近い将来、世間の意識の流れが、なにかの答えとなるだろう。
どのような流れになるかは、誰にも分からないが・・・・
■南無華厳 狼山道院■
森は、かなり気温が下がってきた。
もう平野部の初冬くらいの冷気に満ちている。
このまま加速度的に、あの凄まじい寒気の世界に入っていくだろう。
森の冬が来れば、もう記事を書くことが難しくなる。
寒気と降雪に伴うさまざまな作業が発生してくるからだ。
犬たちの飲み水はたちまちに凍り、
降雪が続けば、スコップ一本で延々と除雪する毎日となる。
森への道は除雪車など来ないから、四駆のクロカン車でも走破困難となる日もあるのだ。
だから今のうちにと、記事を書いてきた。
書けるときに書いておかねば、いつ書けるかも分からないのだ・・・・
※犬たちは、冬に備えて体力作りをしてきた。
酷寒による激しい消耗に耐えられる体力を生むために、
厚く密生したアンダーコートを生むために、
がんがん食べ、がんがん運動した。
今は最長老が13歳、次が12歳、次が11歳、次が10歳、そして6歳、5歳と続く。
( 11歳が3頭、6歳が2頭、5歳が11頭いる。)
13歳の「蓮」は短毛で高齢なので要注意だが、彼の底力を信じるしかない。
元気に数キロの運動をこなし、すこぶる食欲旺盛なので、きっと大丈夫だ・・・・
■「スプリング」さんから、真摯なコメントがいっぱい来ていた。
日々、深く考えているのだと思う。 その姿勢に敬意を表したい。
氏の意見は、誠にごもっともだ。
おそらく世間からの反発は非常に少ないと思う。
世間一般論として、その意見の理屈は人々に伝わると思う。
その意見の広報は、それはそれで素晴らしい仕事だと思う。
だが実情として世間の多くは、その本心は、氏のような心境とは異なる価値観にいる。
信じられないほどの冷酷非情も、想像以上にたくさん実在する。
試しに、実生活で関わるさまざまな人たちに、さりげなく、意見を聞いてみると分かる。
このネット上だと、さもみんなが真剣に考えているような錯覚に陥るが、
試しにコミュニティーの人達とか仕事関係者とか友達とか、
そういったさまざまな人たちに、さりげなく聞いてみると分かる。
我が想いと世論とが、想像以上に懸け離れていることを思い知らされる。
例えばそのような価値観の人たちへ、本心の想いを語れば、
その反応は火を見るよりも明らかだ。「?????」で終わる。
忌憚なく意見を語るには「時機」があり、それを無視すれば空回りとなる・・・・
世間の意思が醸成されるには、長い長い時間がかかると思う。
人から人へ口伝いに伝わり、世間にだんだんと浸透し、徐々に徐々に醸成されていく。
結局、世間を変えるのは世間しかない。
律法や戒律で世間の本心など変わりはしない。
理屈の倫理観だけで人の心は変わりはしない。
人々が心からの本心で思わなければ、何も変わらない。
人々の総意が世論となり、社会通念となるのだから、
人々の心そのものに訴えていくしかない。
だが人の心に訴えるなど、生易しいものではない。
人の心深くに迫るなど、至難の業だ。
至難だが、あきらめる訳にはいかない。
動物たちの心を知った以上、彼らを裏切る訳にはいかない。
誰を責めてみたところで、堂々巡りになる。
何故ならそれぞれに言い分があるからだ。
そしてそれぞれに、それを譲らないからだ。
その是非は、世間がしてくれる。
世間が判断し、そして社会通念へと発展する。
ところで私に出来ることは、「ヒント」を提言していくことだけだ。
そのヒントが、もしかして誰かの心に届くかも知れないと、
そしてその人が、また誰かにヒントを投げかけてくれればと、
そのような思いで発信している。
ここで言うヒントとは、「動物たちの心の世界」のことだ。
だが彼らの心の世界を知ってもらったとして、
しかしその後の判断は、その人その人に委ねるしかない。
人の感受性は千差万別だし、どう感じるかなどその人の問題なのだ。
私はつまり、そのようなスタンスにいる。
動物界からの伝言者の立場で、提言を続けてきたのだ。
意見の発言もあるが、あくまでも伝言者としての発言なのだ。
■例えば「ペット」に関わる諸問題。
私は、人間はペットを飼わない方がいいと思っている。
これだけ無尽蔵のように問題が溢れ続け、それが一向に治まらないのだ。
そもそも「ペット」感覚ならば、安易に捨てる飼主がいても何ら不思議ではない。
ペット感覚ならば、憂さ晴らしの虐待行為が起こっても何ら不思議ではない。
それが「ペット」であるならば、それは避けられない宿命となる。
だからそもそも、ペットなど飼うこと自体に誤りがあると、そう思うのだ。
最初から、問題発生が、火を見るよりも明らかなのだ。
「コンパニオン・アニマル」という概念がかなり定着してきたとはいえ、
それでも問題はなかなか治まらない。
なぜなら、いくら「家族同様」と意識しても、
動物たちの「導きの者・リーダー」になるのは難しいからだ。
共通の言語を有する人間同士の家族に於いてさえ、
「家長」の任務を果たせずに破綻する場合も多いのだ。
だからもしそれでも動物と暮らしたいのなら、「真のリーダー像」を探求し、
そして真のリーダーで在り続ける不断の努力が必要だ。
リーダーとは、
ボスであり、統率者であり、導きの者であり、そして揺るぎない愛の実践者であり、
そして不屈の覚悟を持った守護者でなければならない。
大袈裟と聞こえるかも知れないが、それがリーダー!!だ。
動物たちは、真のリーダーを、心から慕う。
怖れるのではなく、忍従するのではなく、心から愛慕するのだ・・・・
子供が欲しがっているからとか、
情操教育の教材にしたいからとか、
寂しいからとか、ただ番犬に使うからとか、
そのような発想ならば、すでに破綻は目に見えている。
だが現実には、そのような安易な動機が大半を占めているのだ。
これは殺処分問題を問う以前の、それ以前の問題なのだ。
どうかこれを、動物界からの伝言として受け止めて欲しい・・・・
■スプリングさんは、「原罪」という言葉を使った。
とても分かりやすい論理だ。
かりに原罪だとするなら、もしそうならば動物の悲劇の大半は避けられない。
だとするなら、人間の英知を絞って「手段・方法」を考え抜いて欲しい。
人間の全能力を注いで、命を戴く際の配慮を実現して欲しい。
こうやって苦しめて殺すと旨味が増すから・・とか、
生きたまま剥ぐと毛皮が綺麗なままだから・・とか、
そのような不遜な理由で尊い命を弄ぶことは、何としてでも止めて欲しい。
無理難題を突きつけている訳ではない。
これは「せめてもの・・」哀願なのだ。
人類が偉大な賢者ならば、人類が愛に満ちているならば、
動物たちのせめてもの願いを、聞いて欲しいのだ・・・・
※「捕鯨」の実態については、詳しく知らない。
だがどうだろうか・・実際にはどうやって殺されるのだろうか??
「モリ」を打ち込まれたままに逃げ惑い、苦痛と衰弱の果てに死ぬのだろうか??
それが母クジラの場合だと、
子クジラが必死になって母に寄り添い続けるというような話を聞いたことがある。
母の血で染まった海の中で、子クジラは母を励まし続けると聞いたことがある。
その惨劇が海の中なので実感が薄れるようだが、
もしそれが地上なら、どのような光景に映るだろうか??
せめて、苦痛を最小限に抑える方法は無いのだろうか??
そのような配慮は、研究されているのだろうか??
今の科学ならば、それはさほど難しい課題では無いと思うのだが・・・・
あるいは、そのような配慮さえ持たずにいるのだろうか??
もし未だにそうであるならば失望する。
なにしろ、尊い命を戴くのだ。
その配慮さえも不要だと言うのなら、人類の倫理観に失望する。
※「肉食・非肉食」の論議は、延々と果てない。
いつまでも平行線のままだが、それは当然とも言える。
「食いたい!!」と「食わなくてもいい!!」・・・
「どうしても食いたい!!」と「食いたくない!!」・・・
両者はこのような心境なのだから、論議が成立するはずがない。
ただ、「食わない!!」という人は、無理して食わない訳ではない。
肉を食う・・という欲求が、もはや起こらないのだ。
あるいは非常に薄れたのだ。
なぜ薄れたのかは、なぜ起こらなくなったかは、それぞれに違うだろうが・・・
食いたい!!という人には、食わない人のその感覚が分からないと思う。
たとえそこにいくら理論が存在しようとも、納得がいかないだろう。
納得がいかなければ、論議には発展しないだろう。
だがいずれ、近い将来、世間の意識の流れが、なにかの答えとなるだろう。
どのような流れになるかは、誰にも分からないが・・・・
■南無華厳 狼山道院■