<2009年10月5日>

一部の人間が、この私を差別主義者だと弾劾している。

彼らは私の本意を、何一つ理解していない。

いや、そもそも理解しようとなど、彼らは微塵も思っていない。

彼らの目的は、何かのネタを材料に、私を吊るし上げることなのだ。


私は過去に何十回となく、真意の説明をしてきた。

だが私の考えは、彼らの概念の範疇を超えているのかも知れない。

私は、「社会全体」に対して抗議したのだ。

誰が悪いのではない。

問題は、「社会」なのだ。

ほとんどの人間が、「肉」を求める。

世間のほとんどの人間が、肉を食いたいのだ。

だから必然的に、食肉の加工流通が存在する。

その部門は、結局のところ「世間」が求めたものなのだ。

「誰が」ではない。世間の総意が求めたのだ。

だから私はその「世間・社会」に対して発言してきたのだ。

それは記事を注意深く読み込めば明らかなはずだが、

糾弾者たちは、そんなことは最初から無視してきたのだ。


分かり易く言おう。

もしこの社会が非肉食社会になれば、すべての根本が変わる。

人間は、生活のために命を殺すという行為から解放される。

人間は、自らの手で自らの魂を傷つけるという呪縛から解かれるのだ。

人間は、真の意味で、解放されるのだ。

人間は、真の意味で、自由となるのだ。

いったい誰が、傷ついていると思っているのか??

その人本人が、傷ついているのだ。

糾弾者たちよ。その人の懊悩が分かるか??

お前たちは、その人を深い懊悩と悲しみから救えるのか??

お前たちは、いったいどうやって、その人の力になろうとしているのだ??

私は、動物たちだけのために記事を書いているのではない。

深い意味で、根本の次元で、人間のことを考えて書いてきたのだ。

糾弾者たちよ。「魂が傷つく」ということが、実感として分かるか??

どれほどの悲しみか、分かるか??

それに対して、世間受けする欺瞞に満ちた言葉を持ち出して、

お前たちは心が痛まないのか??


世間は、ちょっとやそっとのことでは、その根本に気づかない。

いや、気づこうとしない。

目をそらせ、旧態然を保とうとする。

自分たちは安穏とスーパーで陳列された肉を買い続けて、

自分たちだけが平和な毎日を送り続ける。

社会のシステムに過酷な部分を任せて、自分たちだけが優雅な団欒を味わう。

だから私は、あのような「処刑」という言葉を敢えて使った。

その言葉に、社会に対するメッセージを込めたのだ。


「人権!!」と叫ぶことは、たやすい。

人権を叫んで正義の御旗を振ることは、誰にもできる。

だが、根本を語れば、ときには大きな誤解を受ける。

だが大きな誤解を受ける危険を冒しても、語らねばならないときがある。

私は華厳者として、敢えて語ったのだ。

■南無華厳 狼山道院■