<2009年10月5日>

自然界には、食う者と食われる者との、厳しい掟がある。

その両者ともに守らねばならない、過酷な掟がある。

その厳粛な摂理が守られているからこそ、そに荘厳な調和の音楽が奏でられる。


だが山に、行き場のない悲痛な波動が、色濃く刻まれたままに残ることがある。

その一帯の空気が、底無しの悲しみに支配されたままになることがある。

たとえば、情け容赦のない「ワナ」。

その動物を、何日も何日も地獄の苦しみに追い込む。

その苦しみと悲しみの波動は、同種の動物だけでなく、山のすべての動物に伝播する。

たとえば「ワイヤー・トラップ」に捕らえられた熊の足は、無残に形を失う。

逃れようとするほどに、そのワイヤーは肉を断ち、骨に食い込んでいく。

たとえば、身を動かすことすらできないほどの狭いオリに捕まることもある。

もちろん、死に物狂いで、出ようとする。

手も口も、人間だったら耐えられないほどの重傷を負う。

もし我が子が、そのようなワナに捕らえられたら、母熊は正気を失うだろう。

母熊の、子を想う気持ちは凄絶だ。

狂わんばかりの悲しみと、そして怒りに燃え上がる。

もしも母熊が、そのようなワナに捕らえられたら、子熊は泣き叫ぶだろう。

何日も何日も、子熊はそこを離れずに泣き叫ぶだろう。

子熊の、母を慕う気持ちは、海よりも深いのだ。

その途方もない悲念が、山を覆うのだ。

動物たちは、何者がワナを仕掛けたのかを、本能で知る。

動物たちにとって人間は、完全なる別世界の魔物になっていく。


大昔の「マタギ」には、美学があったようだ。

可能な限りに獲物を引き寄せ、

近距離から正確に急所を狙い定めて一撃で絶命させることが、彼らの誇りであったようだ。

そのような狩り方が理想であり、それが山への敬意の証だったようだ。

だがその暗黙の掟は、時代とともに変質していったのか・・・・

「ハンター」の中には、ネットのワナに鹿を追い込み、

枝角をネットに絡ませて身動きの取れなくなった鹿たちを、

容赦なくバットで撲殺していく人たちがいるという。

そこには暗黙の了解も美学も、これっぽっちも無い。


もし人間が、何の懊悩もなく、気楽にワナを仕掛ける風潮になったら、

すべてが終わりに近づいていくだろう。

ただただ楽して獲物を獲れれば、それですべてOK!!となれば、世も末だ。

口でいくら「感謝!!」と言おうが、そんな言葉は何の意味も持たない。

もし感謝!!と口にするのなら、その手段と方法を、徹底低的に考え抜くべきだ。

それが、感謝の証だ・・・・

■南無華厳 狼山道院■