<2009年10月3日>

以前にも何本か「死」についての記事を書いたが、今日も書く。

※今日は仕事を早く終えたので、この時間に書ける。 これを書いたら、山に帰る。


死は、誰も避けられない。

誰もが、この世界との別れを経験する。

だが死は、生とともに、それとひとしく命のクライマックスだ。


死は、悲しい。

別れなのだから・・・

別れはいつも、悲しいのだ。

だが、悲しいだけではない。

悲しいだけで済ますことはできない。

その重みを、その荘厳を、その途轍もない命のドラマを、

その偉大なクライマックスを、悲しいだけで済ます訳にはいかない。


教えてくれている。

命がこの世界を去る時に、偉大な何かを教えてくれている。

それを、この目に焼き付ける。

それをこの胸に刻み込む。

それがその命に対する至高の見送りだと、私は感じてきた。

それが「看取る」ことだと、感じてきた。


これまで、家族である多くの犬たちを看取った。

いつも、彼らの最期の姿を、この目に焼き付けてきた。

もう、言葉は出ない。

もう、言葉の世界を超えている。

彼らは、誰もが、偉大な最期を見せてくれた。

狼も、北極犬も、小さな雑種犬たちも、小さな子猫も・・・・

最後の息・・そう、最後の息のとき、

そのとき彼らの内なる至高の美が昇華する。

私はいつも、それをはっきりと見てきた。

その命が隠し持っていた途方もない美しさが、一瞬の中に昇華するのだ。

ただただ、畏敬の念で一杯になる。

ただただ、心からの尊敬が胸を埋め尽くす・・・・


犬たちは、自らの寿命を知っている。

自分の本当の寿命を、自分で知っている。

だから死が近づくと、彼らは深い禅境に入る。

「あきらめ」ではない。それとは全く違う。

彼らは、勇気を持って、受け入れているのだ。

厳粛な事実に対して、たったひとりで、己のすべてで、対峙しているのだ。

その姿が、美しい。

その姿は、あまりにも美しい。

私はいつも自問する。「お前にできるか??お前はどんな姿で死と対峙するのか??」・・・

悲しいに決まっている。

最愛の家族が、この世を去るのだ。

だがその悲しみの中で、彼らのその美しさを目に焼き付けてきた。


彼らはみな、延命など求めていなかった。

彼らはみな、すでに心の準備を済ませていた。

この世にしがみつくなど、彼らは微塵も考えていなかった。

彼らは、偉大な定めを、本能の一番奥で知っていたのだ。

「あの世があるから・・」とか、

「別の世界に旅立つから・・」とか、

そのような理由で彼らが覚悟の境地に立つのではない。

彼らがその境地に立てるのは、全身全霊で生きたからだ。

全霊で生きたから、己の運命を覚悟できたのだ。


「犬なんて人間に飼われて何にもしないで生きるのに、なんで??」

と思う人がいるかも知れない。だがそれは大きな誤解だ。

彼らはそのがんじがらめの制約の中で、

表現さえも許されないような特殊状況の中で、

それでも心の中に偉大な経験を積んできたのだ。

その彼にしか分からない、他に変え難い尊い経験を積んだのだ・・・・


寿命は、短い場合も長い場合もある。

だがそれがその命の寿命なのだ。

短いから不幸とか、長いから幸せとか、そのような次元の話ではない。

我々の観念を遥かに超えた、我々の想像を遥かに超えた、

そのような次元の深い深い理由が、きっとそこにある。

私はそれを、強く感じる・・・・


そして、死が近づくと、何者かが、迎えに来る。

犬たちは、それを確かに、知っていた。

迎えが来ていることを、彼らは確かに知っていたのだ。

彼らは、何者かとともに別の世界に旅立つ!!!

冗談かと思われてもいい。信じてもらわなくてもいい。

だが彼らを看取るとき、いつも、それを感じてきたのだ。

「よく、がんばったね・・・」

「ほんとうに、よくぞ、がんばったね・・・」

「さあ、もう、いいんだよ・・・」

「お別れするときが、来たんだよ・・・」

「もう、この世界と、お別れしていいんだよ・・・」

「さあ、この私と、別の世界に、出発しよう・・・・」

仏さま・・・

ありがとうございます・・・

この子のこと、よろしくお願いします・・・

私はいつも固く手を合わせ、その不可思議な何者かに祈りを捧げた。

犬たちが他界するとき、いつも大きな光が現われる・・・・・

■南無華厳 狼山道院■