<2009年10月2日>
韓国のソプラノ歌手、「スミ・ジョー」が大好きだ。
その渾身のコロラトゥーラソプラノを聴くとき、私の魂が震える。
とくに、「アヴェ・マリア : カッシーニ」に感動する。
彼女は、敬虔なクリスチャンのようだ。
その彼女の真情が、そのまま歌となっている。
それはまさしく、全霊の祈りの歌だ。
彼女が、目を閉じたままに、歌い出す。
そしてその祈りが、クライマックスへと向かう。
「入魂の歌」というものは、つまりこのような歌なのだろう・・・
私は華厳仏教を学んできたが、
宗教の違いを問わず、「祈りの姿」に感動する。
その敬虔な心に、胸打たれるのだ。
その純粋な真摯の心が、この胸に迫るのだ・・・
歌の詩は、ただ、「マリアさま・・・マリアさま・・・」と続く。
だが、それですべてが、伝わる・・・・
私はいつも、感無量になって、涙ににじむ。
スミ・ジョーの心に、泣いたのだ。
森で犬たちと一緒に聴く日もある。
夕暮れの森に、魂の歌声が響く。
犬たちの表情が変わる。
犬たちが真顔になって耳を澄ませる。
いや、犬たちだけではない。
森のみんなが、耳を澄ませている。
それが分かる。伝わってくるのだ。
小鳥たちが集まってくる日もあるのだ・・・・
「ヨランダ・アダムス」を聴く日もある。
彼女は、ゴスペル・シンガーだ。
三十数年前からゴスペルを聴いてきたが、ヨランダの歌には感服した。
彼女もまた筋金入りのクリスチャンのようだが、とにかく凄い歌声だ。
その突き抜ける声量と圧倒的な重厚感と天才的なリズム感が、魂を震わせる。
圧巻は、「ヴィクトリー」だ。
彼女の後ろで繰り広げられる「サイン・ダンス」も素晴らしい。
この独特なサイン・ダンスにも目を奪われる!!
チベットの声明音楽(お経の歌)も凄い迫力だ。
中東神秘主義の歌声も心に響く。
全霊の歌は、宗門を超えて心に届く・・・
「信仰」を理屈で考えれば、いろいろとややこしくなる。
だがそれが真摯な純心であれば、それはその人の真実だ。
だからその姿に感動を覚えるのだ。
「懐疑主義」の迷宮に彷徨えば、何も見えなくなる。
「合理主義」の迷宮に彷徨えば、何も見えなくなる。
そもそも何が合理で何が道理かなど、人によってさまざまだ。
それを「人間的思考」によって追い詰めても無理が訪れる。
ときには思考を止観し瞑目し、
ときには己の直観を研ぎ澄ませ、
ときには己の魂の求めるままに、
純粋なる感動に身を任せたらいいと思う。
たとえ表現が異なろうとも、
「すべての命の尊厳」を信じてくれる人がいれば、その人は我が同朋だ。
■南無華厳 狼山道院■
韓国のソプラノ歌手、「スミ・ジョー」が大好きだ。
その渾身のコロラトゥーラソプラノを聴くとき、私の魂が震える。
とくに、「アヴェ・マリア : カッシーニ」に感動する。
彼女は、敬虔なクリスチャンのようだ。
その彼女の真情が、そのまま歌となっている。
それはまさしく、全霊の祈りの歌だ。
彼女が、目を閉じたままに、歌い出す。
そしてその祈りが、クライマックスへと向かう。
「入魂の歌」というものは、つまりこのような歌なのだろう・・・
私は華厳仏教を学んできたが、
宗教の違いを問わず、「祈りの姿」に感動する。
その敬虔な心に、胸打たれるのだ。
その純粋な真摯の心が、この胸に迫るのだ・・・
歌の詩は、ただ、「マリアさま・・・マリアさま・・・」と続く。
だが、それですべてが、伝わる・・・・
私はいつも、感無量になって、涙ににじむ。
スミ・ジョーの心に、泣いたのだ。
森で犬たちと一緒に聴く日もある。
夕暮れの森に、魂の歌声が響く。
犬たちの表情が変わる。
犬たちが真顔になって耳を澄ませる。
いや、犬たちだけではない。
森のみんなが、耳を澄ませている。
それが分かる。伝わってくるのだ。
小鳥たちが集まってくる日もあるのだ・・・・
「ヨランダ・アダムス」を聴く日もある。
彼女は、ゴスペル・シンガーだ。
三十数年前からゴスペルを聴いてきたが、ヨランダの歌には感服した。
彼女もまた筋金入りのクリスチャンのようだが、とにかく凄い歌声だ。
その突き抜ける声量と圧倒的な重厚感と天才的なリズム感が、魂を震わせる。
圧巻は、「ヴィクトリー」だ。
彼女の後ろで繰り広げられる「サイン・ダンス」も素晴らしい。
この独特なサイン・ダンスにも目を奪われる!!
チベットの声明音楽(お経の歌)も凄い迫力だ。
中東神秘主義の歌声も心に響く。
全霊の歌は、宗門を超えて心に届く・・・
「信仰」を理屈で考えれば、いろいろとややこしくなる。
だがそれが真摯な純心であれば、それはその人の真実だ。
だからその姿に感動を覚えるのだ。
「懐疑主義」の迷宮に彷徨えば、何も見えなくなる。
「合理主義」の迷宮に彷徨えば、何も見えなくなる。
そもそも何が合理で何が道理かなど、人によってさまざまだ。
それを「人間的思考」によって追い詰めても無理が訪れる。
ときには思考を止観し瞑目し、
ときには己の直観を研ぎ澄ませ、
ときには己の魂の求めるままに、
純粋なる感動に身を任せたらいいと思う。
たとえ表現が異なろうとも、
「すべての命の尊厳」を信じてくれる人がいれば、その人は我が同朋だ。
■南無華厳 狼山道院■